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第19回 君、音、朝方、etc 【私的小説】

匂いも味も、
喚起される記憶もない。
いい、それで。

 連絡先は知らなかった。彼が私に訊いてこない以上、訊くことができないと思ったから。強がりでもプライドでも、臆病さでもなかった。
 もし、響一が私の目の前から消えた時、私にとって、彼が本当に消えたことになると信じたかった。
 そういう風に、私たちは繋がっていた。

「おう、大丈夫?」
 彼はドアを開け私に言う。
「そっちですよ。忘れ物」
 ギターケースを彼に差し出す。
「あ、探してくれたの?」
「誰が?」
「君が」
「そんなに暇じゃありません」
「偶然、見つけたってこと?」
「そうです。あえて言うのなら」
「ありがとね、」
 そう彼は言う。どこか緩慢な雰囲気が伝わる。
「お茶でも飲んでく?」
「はい」
 とても短く、言葉が邪魔かのように私は返事する。
「じゃ、上がって」

 彼の家に踏み込むと匂いがした。

「何か作っているんですか?」
「鼻がいい、」
 彼はにやけている。
「鍋作っているんだ。味噌の匂いする?」
「いや、不思議な匂いします」
「牛乳の匂い?」
「ああ、言われてみれば」
「牛乳に味噌入れて、野菜と豆腐を食べようとしているわけですよ。そして奇遇なことに、二人前を作っていると、」
 彼はいたずらっ子のように話す。

「これは渡りに船というやつじゃない?」
「それは私が言うセリフだと思います」
「そう思う?」
「そうは思いません」
「わ?」
「船みたいに立派なものではないです」
「お腹はすいている?」
 他の人が作った手料理が久しぶりだと思う。
 彼は言う。
「そうか、家でご飯作らなきゃいけないんだもんね」
「今日はいいです。土曜日だから」
「そうなの?」
「誰もいないから」
「そうなんだ。じゃあ食べてかない?」

 私は返事を返さず、台所の方へ行く。彼は後をついてくる。
 コンロに陶製の鍋がかかっている。小さな鍋。
 響一は言う。

「あと、もう少しで出来るよ」
「肉とか入ってますか?」
「今日は野菜と豆腐だけ。財政事情がね、キュウキュウだから」
「肉駄目なの?」と彼は訊ねる。
「駄目ではないけど、食べないです」
「ヴィーガンとか、そういうこと?」
「そんな立派なものではないです。宗教的な理由だとか、何か信念があるわけでもないです」
「そうか。牛乳は大丈夫?」
「苦手だけど、好きです」

 それを聞き、彼は笑う。
「得意だけど嫌いです、よりはいいね」
「はい」と私は返す。
「得意で好きより、苦手で好きな方がいいだろうか、多分そうだな」
 そう彼は呟く。
「椅子に座って、」と彼は言う。
「好きな所に。好きな体勢で」
 少し不思議な言葉遣いに違和を感じるより、彼の言いたいことを私は理解できたような気がして嬉しい。

「それが君の好きな座り方?」
 彼は挑発するように言う。
「他の座り方を知らないだけです。今は」
「まあね」
 彼から振ってきた話題なのに、ぞんざいな言葉に少し苛立つ。だけど、そんな感情を含め彼に慣れたことを実感する。


「皿洗うの後でいいから、話そうか」 と彼は言う。
「今洗おう、」
 私は普段の習慣を守ろうとする。
「ご飯食べる前に、いただきますをするように、ごちそうさまの後はお茶椀洗います」

 彼は目を細める。
「しっかりしてるんだね」
「習慣です。響一君はお皿拭いてください」
「了解」

 蛇口からは水しか出てこなくて冷たかったけど、当然のこととして受け入れる。お皿は熱さより冷たさの方が好むのではないかと、私は勝手にイメージしている。誰かが滝行する姿を連想する。
「滝行したことあります?」
「ないよ、勿論」
「勿論?」
「珍しいね、君が訳分かんないこと言うの」
「分かりませんか?」
「滝行」
「そう、滝行」
「なんかそういう話したっけ?」
「してないです」
「説明はなし?」
「説明するほどのことではないです」
「そうか。滝行、」

 彼は少し考える風で黙っている。
「してみたいね」
 白装束の響一は、滝に打たれてどんな音を鳴らすだろうか想像してみて、私はおかしくなる。

「お皿が滝行しているみたいです」 と私はそれだけを言う。
「君は面白い人間だ。割と」
「割と?」
「凄くだ」
 手を止めこちらを見る。 私も彼の方を見る。
「婉曲表現だよ、」そう彼は言う。
 私は意味も分からず彼を見つめる。
「これも調べてみて」

 彼も私に慣れてきているのだと感じる。
 何も言わず、私は頷いた。

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