これこそ、ついにわたしの骨の骨、 わたしの肉の肉。
アダムは生き物に名前を付けた。今日、私たち日本人がゾウとか犬とか呼んでいる呼び方はアダムの話していた言語とはちがう。だからあまりピンとこないが、しかし昔の人間が今の人間より知性が劣るというイメージは間違っていると思う。
古代の文字などを解読すると今よりずっと複雑な文法が存在しているそうだ。たかが数十年の私たちの世代においても言葉はその意味が変化したり簡素化したりするが決して高度になっているとは思えない。私も含め、劣化しかない。
神はアダムを眠らせてそのわき腹から取られた骨から女をおつくりになった。アダムはその女を見て「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」とアダムが言ったとか。ヘブル語だと男がイシュ、女はイシャーというらしい。彼女の固有の名前はエバ。
ところでこんなことを考えたことはあるだろうか。
目の前にふわふわして、しっぽをふり、元気にワンと吠える動物がいる。これに犬と名付けたらそこから、それは犬と人間という関係が生まれる。名前があるということは、単独では存在していないということだ。女は男に対して女であって、犬は人間に対して犬であって生き物としてのカテゴリーがある。
犬と人間の間柄は犬同士には通用しない。犬の犬は、いない。犬同士だ。(私は何を言ってるのだ)
私たち人間はどうだ。人間にとって人間は人間という自分とは別の階層の生き物ではない。人間同士ではないか。
この区別は
ことばが先にあって、できた。人間は「ウォー、ホゲェ」しか言えない言葉を持たない何者か、として生まれながら、だんだん話せるようになっていったはずはない。赤ちゃんはわずか2歳足らずで大人の言葉をある程度理解できている。言語を理解する能力をもってきている。しかしそれはすでに話せる親などから言葉を学習しているのだ。
私たち人間を人間としてつくられたお方がいる。それがもちろん神だ。この神は私たちのこの知恵の源であり、ことば なのだ。
結論として私たちは、神から、神のことばから生まれたのだ。
なんと素晴らしいことだ。それは望まれて生まれてきたということではないか。望まないのに、偶然生まれたとするのは進化論だ。だとしたら夢も希望も正義も未来もない。
なぜ親は子を愛するのか。愛されなかった子はなぜ不幸なのか。世が偶然ばかりでできているからではないからだ。もしそうならもうとっくに滅んでいるだろう、生命そのものが。聖書を読むということは
それを知っていく喜びをたどっていく冒険なのだ。