畑中真珠

畑中真珠

最近の記事

レベル2

教会で通常使われる聖書は新改訳か共同訳が多いのだろうか。しかし複数の聖書を読み比べると意外な発見をするものだ。(特定の宗教団体の特殊なものを除くように) 写真は岩波書店の出している新約聖書のマタイによる福音書の一部である。私はこの翻訳が大好きだ。個人的には私にはわかりやすいのである。(岩波のこの聖書自体はけっこう古く現在入手は簡単ではないかもしれない) ところでこの岩波の聖書にある主の祈りの 「御名が聖なるものとされますように」とは新鮮だ。よくきく「あがめられますように」

    • レベル1

      主の祈りはあまりにも有名な教え。クリスチャンなら新しい人以外は大抵知っているだろう。 知ってはいるが興味がそれほどない人も多いと思われる。そしてそこはかつての私も同じだから。でも今は大変重要なことばとして毎日の祈りのなかでもこれを意識する。 私はある時期の数年間、居合に夢中になっていた。抜刀術とも言う。刀を抜いた瞬間と相手を斬りつけるのが同時のやつだ。 何か趣味を始めたいと思いクリスチャンでありながら、ある道場の門下生になった。最初は違和感は感じていなかった。あれが神道

      • わかった人から、ニヤリ。

        さて、普通ならこんなことは無理だ。私だってバカにされてニコニコできるような人間でも何でもない。 しかしだ。私たちはなんでも「バランス」ってあると思うんだけど、著しくバランスを欠いてると、整えたくなるのが自然な感覚じゃないかな。 たとえば、みかんが5個あったとして、私が今回3個もらい、友達は2個になった。次回に再び5個のみかんがあったら、次は友達が3個で私が2個で、なんだかスッキリ気持ちがいい。 もし子犬の兄弟がいて、一番末の小さい子がいつも端っこでママのおっぱいを十分も

        • 2歳ほどの幼い子がささげものとして

          時々クリスマスカードの絵として東方の博士たちがイエスの誕生を知って訪ねている様子が見られる。 それには生後間もない赤ん坊が描かれていることが多いが実際は2歳前後だったと考えられる。羊飼いも描かれていることが多いが羊飼いたちは生まれて間もない赤ん坊を見たと思われ、彼らの間には2年ほどの時間の経過があたのだろう。 博士たちはおそらくユダヤ人ではなかった。しかしどういうわけか、救い主誕生の預言と、そして実現に至ったことを知っていてはるばる来たのである。youtubeでキリスト教

          荒野で呼ばわる者の声がする

          洗礼者ヨハネはイエス・キリストよりも6か月ほど少し先に生まれた。彼もまた大天使ガブリエルからヨハネの父(祭司ザカリヤ)への告知があって誕生した。新約聖書ではあまりにも有名な彼だ。 ところで、イスラエルにはナジル人(びと)という、特別に神に誓願をたてて、宗教的な制約を守り神への献身を表す人がいる。その期間中はぶどうでできたものは食べたり飲んだりしなかったらしい。このヨセフはいなごと蜂蜜を食物としていたらしく、それゆえナジル人であったのではないか?と言われているようだ。 彼は

          荒野で呼ばわる者の声がする

          これこそ、ついにわたしの骨の骨、 わたしの肉の肉。

          アダムは生き物に名前を付けた。今日、私たち日本人がゾウとか犬とか呼んでいる呼び方はアダムの話していた言語とはちがう。だからあまりピンとこないが、しかし昔の人間が今の人間より知性が劣るというイメージは間違っていると思う。 古代の文字などを解読すると今よりずっと複雑な文法が存在しているそうだ。たかが数十年の私たちの世代においても言葉はその意味が変化したり簡素化したりするが決して高度になっているとは思えない。私も含め、劣化しかない。 神はアダムを眠らせてそのわき腹から取られた骨

          これこそ、ついにわたしの骨の骨、 わたしの肉の肉。

          アダム誕生

          彼は最初の人だ。 神によって地上のちりでつくられたとされている。 猿のようなものからだんだん人間になったとは書かれていない。信じようが信じまいが私たちは神の力とことばによってうまれた。 何も考えず生まれるだろうか。産み出せるだろうか。私たちはだた1枚の絵ですら写真ですら ああでもないこうでもないと心に描いた通りを実現しようと苦心する。 よくできているではないか。私たちのこの手も、目も、言葉も。私たちはクリエイティブの頂点である神に似せてつくられたからいろいろつくるのが好

          アダム誕生

          クリスマスが近づいた

          12月25日がキリストの本当の誕生日とは関係ないということを知ってもうどのくらい経つだろう。 それでも世間では毎年この時期には赤と緑の飾りつけがあらゆる場所に見られる。とても輝いて美しいけれど肝心の救い主のことにはあまり関心はないようだ。 私は逆にこの時期のクリスマスに興味がなくなってしまった。ワクワクすることもなくなった。ただしそれは救い主への興味を失ったという意味ではない。礼拝する気持ちは昔に比べてさらに厳粛に、さらに強くなっている。(だからこんなこと書こうとしている

          クリスマスが近づいた