2歳ほどの幼い子がささげものとして
時々クリスマスカードの絵として東方の博士たちがイエスの誕生を知って訪ねている様子が見られる。
それには生後間もない赤ん坊が描かれていることが多いが実際は2歳前後だったと考えられる。羊飼いも描かれていることが多いが羊飼いたちは生まれて間もない赤ん坊を見たと思われ、彼らの間には2年ほどの時間の経過があたのだろう。
博士たちはおそらくユダヤ人ではなかった。しかしどういうわけか、救い主誕生の預言と、そして実現に至ったことを知っていてはるばる来たのである。youtubeでキリスト教のある動画で知ったが、おそらくこの博士たちはバビロン捕囚時代に生きたダニエルの預言書を知っていたのだろうということだ。このダニエルやバビロンのことはまたいつか書きたいとは思う。
彼らが最初に出向いたのはヘロデ王のところ。「ユダヤの王がお生まれになったはずだが、どこでしょうか」と聞いた。しかしそこには幼子の王はおられなかったので王宮を出てイエスのいる家までたどり着いたとされる。
私たち人間の2歳くらいの子供。透き通るような肌と輝くひとみ、小さな手のひら、やわらかい髪。そんな儚げな子供がのちに全人類の罪のための捧げものとなって死ぬためにここにこうして生まれておられる。
ひれ伏して礼拝せずにおられないのではないだろうか。自分の罪の代わりに目の前のその子が裁かれるなんて。
「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。(マタイ2:11)」
黄金は王に贈るものであり、またイエスの成長までの生活費にされただろうし、乳香は神に捧げられる香としての意味があり同時に薬でもあったし、没薬は埋葬の時に使われる防腐剤の意味がある。
私たちは幸福を神に願って叶えられないとご利益がないだとか神なんていないだとか言う。しかしその前にまず、神との関係を正さなければならない。ルールを無視する相手になぜまともに向き合わなければならないのか?
そういうことなのだから。