レベル1
主の祈りはあまりにも有名な教え。クリスチャンなら新しい人以外は大抵知っているだろう。
知ってはいるが興味がそれほどない人も多いと思われる。そしてそこはかつての私も同じだから。でも今は大変重要なことばとして毎日の祈りのなかでもこれを意識する。
私はある時期の数年間、居合に夢中になっていた。抜刀術とも言う。刀を抜いた瞬間と相手を斬りつけるのが同時のやつだ。
何か趣味を始めたいと思いクリスチャンでありながら、ある道場の門下生になった。最初は違和感は感じていなかった。あれが神道と直結しているなんて知らなかったからである。
しかし少しずつ知っていけばそういうことだとすぐにわかった。大会などは神社で行われるし、大会とはいってもスポーツのような勝ち負けがあるものではなくて、演武や稽古を捧げるのだ。「奉納」なのである。天照大神に代表されるいわゆる日本の神々に。居合だけじゃなく、合気道や空手もそもそも、そういうものなんだろう。それが日本文化なんだなと思った。
それがわかってからも、稽古は楽しくてすぐには辞めなかった。とにかくうまくなりたかったし、日ユ同祖論や陰謀論などの影響もあって(今は興味がなくなったが)ルーツはどこにあるんだろうかとしつこく調べ、自分でも考えた。侍とユダヤは関連あるだろうかと。
型の練習を自宅でもよくやった。正座の状態から立ち上がる時に抜刀し同時に相手の右胸から首のあたりまでを、下から斬る稽古をする。違うパターンの斬り方が型としていくつもある。このとき、時代劇で見るような、一発で死に至らせるようなのをやる必要はない。狙った場所にある程度の傷をつけられたら相手はそれ以上戦えないはずだ。その後、刀についてるはずの血を毎回振り払い、納刀する。このときサイズの合わない刀だと格好悪い!
いつでも死と隣り合わせだった時代を想像していろいろ気づくことが楽しかったし、非日常的な感じがした。外国人もたくさん、こういった武道を学んでいるがこの魅力を感じるのだと思う。強くなりたいと思って始めるかもしれないが精神と一体なので結局、生き方にも影響してくるし、人は信念を持つことで自信も持てる。
大会に行くと、ほかの道場の方々と1日同じ空間にいることになる。すれ違ったり並んだりする。礼儀正しくすること、秩序を守ることなど言葉を交わさなくても皆が守っている。居合は袴をつけるので着こなしも、乱れがないよう気を付けた。
「あそこの道場の門下生は先生のしつけが行き届いてる。素晴らしい方なのでしょうね。」と言われることを念頭に置いていたつもりだ。
あれ?一体、私は なぜそんな気持ちになるのか?
古武道に対する敬意と先生に対する尊敬からだ。先生の名を高めるためだ。そのことによって私がここに所属していることに価値を見出せた。
あ、これか。あの主の祈りの冒頭はこういうことかと理解した。私が鳥居をくぐる際に礼をしてから入る瞬間のことであった。
神を愛するなら神を愛するものとしてのふさわしい立ち振る舞い、言葉、礼儀、心からの敬意・・・信仰とは名ばかりの教えであってはいけない、信仰があるからこそ、行いにもあらわさなくてはいけないのだ。
(なぜもっと早く気付かなかったのか)
(クリスチャンでなければ私は一体どんな適当な人間だっただろうか)
私は古武道をクリスチャンにおすすめするのではない。無知だから飛び込めただけ。私たちのすべてのことを神様は益にしてくださる。でもだからと言って神様の恵みを前提になんでもしていいのではない。これはよい例ではない。結果的にめでたしめでたしとなった例でしかない。
そしてこれはレベル1にしかすぎなかった。つづく