荒野で呼ばわる者の声がする
洗礼者ヨハネはイエス・キリストよりも6か月ほど少し先に生まれた。彼もまた大天使ガブリエルからヨハネの父(祭司ザカリヤ)への告知があって誕生した。新約聖書ではあまりにも有名な彼だ。
ところで、イスラエルにはナジル人(びと)という、特別に神に誓願をたてて、宗教的な制約を守り神への献身を表す人がいる。その期間中はぶどうでできたものは食べたり飲んだりしなかったらしい。このヨセフはいなごと蜂蜜を食物としていたらしく、それゆえナジル人であったのではないか?と言われているようだ。
彼は自分を指して言った。
「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」
それは自分が何者であるかを知っていたということ以外の何ものでもない。
決して救い主本人ではなかった。しかし人の顔色を見ない、正義には妥協を許さない面があった。それは当時の王に対してもそうであったから無残な死に方をした。これも有名な話だが、ヘロデ王の妻ヘロデヤの連れ子のサロメの舞踊への褒美としてヨハネは首をはねられ、その首は盆に載せられた。
ヘロデ王に何を言ったのか?「兄弟の妻をめとるのは、よくない」と言ったのである。これに怒ったのはヘロデ王よりもむしろ元ヘロデ王の弟の妻ヘロデヤだったようだ。彼女が娘サロメに命じてヨハネを殺させたと聖書には記されている。
人間は
他人から悪意を受けた時よりも、自分の悪を言い表す相手に出会った時のほうが憎しみを感じるのではないだろうか。悪いとわかっていてやめることのできないことを責められるときや、神に逆らっていると気づいていながら離れることのできない悪を指摘されたとき。後ろめたさの伴う今の自分の状態を脅かす存在、それはきっととても憎いんだろう。
結局神に逆らうということは、神のお決めになった掟を破ることであって、それを認めると自分の欲望を満たすための何かが失われることに恐れを感じるのだろう。だから「こいつさえいなければ」という極論へとつながり、やがてはヘロデヤのようになるということだ。
確かに一般的な社会生活の中では簡単にはヨハネの真似できない。しかしいざというとき。あきらかな間違いにNOと言える勇気は忘れていいはずはない。そんな勇気あるか?ある、聖書には、ある。
ヨハネは自分が何ものかを知っていたから、それができた。救い主が来られることへの揺るぎない信仰と自分がその道を整える者だという確信。
日本人にはわかりにくいかも知れないが、罪あるままでは神の国には入れない。だから罪をゆるしていただく必要がある。罪をゆるしていただくには身代わりとなり罪を受けてくれる犠牲が必要である。このころまでは牛や羊などがその犠牲で、神殿とはそういうものを神に捧げる儀式の場であった。
神の教えの通り、それを一通り行うことで罪はゆるされる。クリーンな状態であれば神とのねじれのない関係になれる。神の国にも入れる。救い主とは牛でも羊ではなく、ご自分そのものを(私たちの分の犠牲として)神にお捧げになられるお方ということ、それが救い主の到来であった。それ以上優れた捧げものは、もはやないのでもう動物の犠牲は不要となった。
「悔い改めよ、天国は近づいた」彼はそう呼ばわった。当時の人々は意味を理解していたのでそのお方が来るまえにヨハネから洗礼を受け、神を礼拝する準備を整えた。