レベル2
教会で通常使われる聖書は新改訳か共同訳が多いのだろうか。しかし複数の聖書を読み比べると意外な発見をするものだ。(特定の宗教団体の特殊なものを除くように)
写真は岩波書店の出している新約聖書のマタイによる福音書の一部である。私はこの翻訳が大好きだ。個人的には私にはわかりやすいのである。(岩波のこの聖書自体はけっこう古く現在入手は簡単ではないかもしれない)
ところでこの岩波の聖書にある主の祈りの
「御名が聖なるものとされますように」とは新鮮だ。よくきく「あがめられますように」とは全く違う表現だ。
聖なるものとは、結局、汚れがないのだ。だから神の御名が汚されてはならないのだ。聖いから神なのだから。
白い絵の具にただ1滴の黒が混ざればそれは「ほぼ白」になってしまい、白ではなくなる。そういうことだ。1滴もないのだ、神には黒い部分が。
もっとちゃんと言えば神は光だ。光は闇を全く消し去ってしまうのだ。両者が混じり合って存在することはできない。だから昔のユダヤの人々は神を見たら死ぬと考えていたのではないか。罪ある自分たちは罪のない汚れのない神の存在の前では消え去る。
また神は愛だ。愛なら愛じゃないことはやってはいけないのだ。何かをしようとするとき誰かの目にわざわざ留まるようによいことをしよういとするならそれは愛からの行為ではない。ただし、この世ではそんな生き方が不利に見えることも多々あるが。(だけど天国ではこれが報酬に替わるから素敵)
さて私たちが神をそのようなお方であると正しく認識するのであれば、私たちもそのようであろうとすることが求められると私は思う。そしてそれは、そうしないと救われないのではなくて、救われたからそうするのである。救われてないとできない行為なのだから。
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。(ヨハネ 14:15)これがその別の言い方でもある。簡単ではないから毎日のように葛藤が起こる。しかし守れたら平安がある。