【短編小説】恋色の写真
講義中に涙が溢れてきたから、慌てて目元を拭った。
呼吸が荒くならないよう気をつけながら気持ちを落ち着けていると、隣の席の瑠美乃が「ひな、本当に大丈夫なの? これ終わったらもう帰りなよ」とこっそり声をかけてくれた。
講義が終わる頃にはどうにか落ち着いていたけど、目元は随分赤くなっていた。
「次の講義のプリントは貰っとくから。無理しない方がいいって」
瑠美乃の言葉にまた泣きそうになった。
「ありがとう、ごめんだけど、今日はもう帰る。本当ごめん」
「いいよいいよ! 気をつけて帰るんだよ」
決壊しそうな心を抑えることでいっぱいいっぱいで、気の利いたことが何も返せなかった。
今はただ、優しい友達に恵まれたことに感謝した。
「その、好きな人ができちゃったかも、しれないんだ……」
健斗にそう言われたのは、つい三日前の出来事だった。
写真部の活動が終わった帰り道、大事な話があるから家に行っていいかと言われた時から、何となく嫌な予感はしていた。
いや、もっと言うとここ数日違和感はずっとあった。見て見ぬをフリしてたけど。
「えっ……えと……?」
喉が細くなるみたいな感覚に襲われて、息がしづらくなって、頭がくらっとした。
でも身体への不安よりも、彼の言葉をどうにかいい風に解釈しようとすることで頭がいっぱいになった。
「ごめん、本当にごめん」
部屋の小さなテーブルの向かいに座ってる健斗は、悲しそうに顔を歪ませた。どうやら私への罪悪感でいっぱいらしい。
そこまで苦しんでまで、わざわざ私にそんな話をするって、なんで?
次から次へと考えが浮かぶのに、言葉が出てこない。
頭がふわふわする。
焦る気持ちがぐるぐるとしてる。
でもイラついても悲しくもなくて、もはや自分が今冷静な気さえしている。
「えっと……ちなみに、誰なの?」
やっと声を絞り出した。
健斗が気まずそうに顔をそむけて「それは……」と小さく呟いた。
「ねえ……もしかして、私の知ってる人、なの?」
「……うん。その…………紗耶先輩」
それまで宙に浮いたような気持ちが、急にズキンと明確に苦しくなった。
心臓がバクバクと鳴り始める。目元に涙が溜まる。
紗耶先輩は写真部の部長で、明るくて頼りになる、姉御みたいな人だ。
いつも部員のことを分け隔てなく接してくれて、私にとって憧れの、大好きな先輩だった。
なのに、そんな魅力すらも一瞬で疎ましくて堪らなくなっている。
「……いつから?」
自分でも驚くほど怖い声が出る。
「先週くらい、かな」
そのまま健斗は経緯を説明し始めた。
つい半月前、私達は喧嘩した。
付き合って五ヶ月が経って、初めての喧嘩だ。
健斗は私を怒らせてしまったことで、随分落ち込んでいたらしい。
そしてその時、ちょうど写真部の活動で紗耶先輩と部室で会って、落ち込んだ様子の健斗を随分と励ましてくれた……とのことだった。
話を聞きながら、とうとう涙が少しずつ溢れてきていた。
「勿論、付き合ってる人がひなだってことは言わなかったよ。ただ……ひなと仲直りしてすごく安心したのは本当なのに、どうしても紗耶先輩のことを考えるようになってるって気づいてさ……」
部内恋愛でからかわれたくないからと、私達はごく少数を除いて付き合っていることを部内の人には秘密にしていた。
……秋の文化祭が終わったら、そのタイミングで伝えていいんじゃないかというのも、少し前に話したばかりだったのに。
テーブルに置いていたティッシュを一枚取って、思いっきり鼻をかんだ。
もう一枚取って、今度は目元を拭いた。
健斗は叱られている子供みたいに、怯えた顔をしたままじっとしている。
「……だからここ数日、様子がおかしかったんだね」
ついさっき部室で紗耶先輩に会ったばかりだったけど、特に変わった様子も無かった。
本当に何も知らないんだろう。
「……本当にごめん。最低だって分かってるんだ」
「じゃあ、明後日のご飯とか、来週末の旅行は、もう行かないの?」
たまに溢れる涙を淡々と拭きながら、上ずる声で聞いた。
屈辱的な気分なのに、それ以上にどこか縋るような気持ちがあった。
「……うん。もしキャルセルのお金がかかったら、それは俺が全部払うよ」
ぎゅっと歯を食いしばる。
また涙を拭って一呼吸置く。
別れ話ってこんなにかんじなのか。
まだ頭が何も追いついていないけど、どうにか別れることに受け止めようとしている自分がいる。
何だか壊れないように、準備しているみたいだ。
「それでさ……俺なりにこんな曖昧な気持ちのまま、ひなとの関係を続けるのはダメだって考えてさ。……その、とりあえず紗耶先輩に告白しようと思ってる。それでダメだったら……その時もう一度、ひなとのことを考えたいって思ってるんです、けど……いやっ、その……どうかな……?」
…………んっ?
私は何を言われた? どういうこと?
別れを切り出されていると思って身構えていたのに、この人は、それよりもずっとずっと酷いことを言っていないか?
一瞬涙が止まった代わりに頭がくらくらし始めた。
「えっ……と、それってもしかして、私をキープするってこと?」
信じられなくて、言葉が勝手に出てきた。
「……そんなつもりじゃ、ないんだよ。本当に。もう俺が無理なら、ひなの方からフってくれ。最低なのは、俺だから」
ああ、そっか。健斗の心は、私から完全に離れたわけじゃなんだ。
その時、健斗に恋した時より、付き合っていたどの時間より、健斗を私だけのものにしたくてしょうがなくなった。
同時に、今の健斗には自分より優先したい女がいることに気が狂いそうになった。
「…………よくそんな酷いことができるね」
「ごめん」
「許さない」
「ごめん、本当に」
彼は私にフラれる想定もしているようだった。
それなのに私は、心の奥底にまだ確かに潜んでる恋心みたいなものに抗えなくて、屈辱でいっぱいなまま、言葉を紡いだ。
「でもね、今振るつもりは、ないよ」
「……そっか」
健斗の返事は力なかった。
私は涙でいっぱいの目で、精一杯睨んだ。
健斗の瞳にほんの少しだけ安堵の様子が見えて、沸き上がった腹立たしさの中に小さな愛しさを感じた。
自分の全部が矛盾していた。
「だから、紗耶先輩のことが終わったら、ちゃんと教えて」
健斗は小さく「分かった」と言って、そのまま私の家を出た。
一人になると大きな声を張り上げてボロボロと泣いた。
過呼吸になりかけて、孤独に耐えられなくて、とうとうそのまま瑠美乃に電話をした。
泣きじゃくってる私にびっくりした瑠美乃は、すぐ家まで駆けつけてくれた。
瑠美乃に事情を全部説明して、辛い気持ちもまだ好きな気持ちも全部ぶちまけて、泣くのにも話すのにも疲れた頃にはもう深夜になっていた。
瑠美乃はずっと優しかった。
励まして、同意して、たまに自分の考えを伝えてくれながら話を聞いてくれた。
心のぽっかり空いてた部分に、瑠美乃の優しさが随分沁みた。
けれど、寝ようとベッドに入って目を瞑ると、頭の全部が健斗のことで埋め尽くされて、身体が熱を持ち始めた。
眠らなきゃって思って深呼吸してみたり別のことを考えようとしてみたりしたけど、全然意味なかった。
目を開けると暗くて余計不安になるからずっと目を瞑っていた。
その日は寝てるような起きてるような、不安定な時間を何度も何度も繰り返した。
ひとりぼっちの眠れない夜が、永遠みたいに長くて苦しいことを初めて知った。
次の日はご飯が喉を通らなくなった。
食欲が少しもわかなくて、でも何か食べなきゃと買っていたパンを一口かじった。
それが精一杯だった。
大学に行こうと準備していると、健斗と紗耶先輩に会うことが怖くなってボロボロ泣いてしまって、とても外に出られなくなって休んだ。
気を紛らわそうと好きな番組の配信を見たり、SNSを眺めたりしてたけど全然意味がなかった。
私がどれだけ傷ついているのかとか、健斗がどれだけ私を傷つけたかをとかをSNSの下書きに何度も書き綴っては、投稿しないまま消した。
紗耶先輩と健斗が今どうなっているか全く分からないから、いつ連絡が来るんだろうということばかり気になった。
でも自分から健斗にメッセージを送ることは、意地でもしたくなかった。
結局アルバイトもサークルも休んで、ただ心のざわざわを誤魔化す為に無為に時間を費やして、そして長い長い夜をやり過ごした。
そうやって拷問みたいな時間を過ごして、ようやく少しは落ち着いたと今日は大学に行ったのに、結局また泣いて家に帰ってきてしまった。
「……疲れた、もう疲れた。もう嫌あ」
家に着いて着替えもせずに布団に飛び込んで泣きじゃくった。
泣き疲れて、目が腫れぼったくなったまま、ぼーっと寝っ転がる。
そして健斗からの連絡が気になってスマホを開いて、今日もまた何も来てないことにもどかしくなる。
何か気を紛らわそうと、そのままSNSを開いた。流れてくる新規投稿を眺めながら、ふと自分の過去の投稿写真を見返した。
この間私の家で作ったご飯、オシャレなランチ、向日葵畑の写真、写真部の前期お疲れ様会、ネモフィラの花畑、カフェで食べたパフェ、海の景色……写真部に入ってからの写真は加工したり画角を工夫したりするようになったから、我ながらどれも綺麗だった。
健斗といる時の写真は匂わせにならないよう細心の注意を払ったけど、私の中の健斗の記憶は写真に残っている。
幸せだった私が、確かにそこに写っている。
この頃は本当に幸せだったなあ……。
健斗との時間は本当にずっと楽しかった。
健斗は大学入ってすぐ付き合った、人生で初めての彼氏だった。
同じサークルの一つ年上の先輩で、イケメンではないけど表情が柔らかくて、写真は好きだけどSNSは苦手で、ちょっと優柔不断だけどいつも優しい……全部全部、私にとって理想の恋人だった。
いっそのこと完全に気持ちが冷めてしまえばいいのに。
自分から健斗を捨ててしまえば全部終わらせられるのに。
幸せだった頃に戻れるかもしれない可能性が、その決断をさせてくれなかった。
気づけば外はもう暗くなっていた。
どんどん日が短くなっていることに憂鬱になる。
お菓子を少し食べてからシャワーを浴びて、最低限の寝る支度を整えて、再びベッドに寝っ転がった。
真っ暗だと不安になるから、眩しくない程度に電気をつけた。
今夜こそ穏やかに眠れると願って目を瞑るけど、目は冴えていた。このたった数日の間に〈沙耶先輩と付き合うことになった〉って連絡が来る夢を見て飛び起きたことが何回もあって、今は眠ることすら怖かった。
「……ダメだ、眠れない」
またズンズン心が重くなっていく。
いい加減、矛盾した感情に振り回されるのに疲れ切って、気が狂ってしまいそうな感覚すらあった。
ここ数日どんよりした気分で過ごした空気が自分の家に染みついているみたいで、自分の家にすら嫌気がさしていた。
明日も明後日も休みなのに、この家に一人で過ごしてしまったら本当におかしくなるんじゃないかという漠然とした不安に駆られた。
思い切って実家に帰ろうかな……でも流石に遠いし、何よりもし泣いたりしたら心配させちゃうよなあ。
とにかく明日はどこかに行こうと考えて、ふと一つ候補を思いつく。
が、一旦保留にすして、旅行を予約できるアプリを開いて色々調べた。
ここじゃない、どこか遠くに消えてしまいたい。
その気持ちでいくつも眺めたが、最初に思いついた候補以外にピンと来る場所はなかった。
「……まあ、いっか」
……本当は明日、健斗と初めて泊りがけで旅行に行くはずだった場所。
自分でも理由はよく分からなかったけれど、今の自分にはそこに行くのが一番いい気がした。
そのまま安い宿を予約して、また眠れるまでの長い時間をやり過ごした。
簡単な荷物を詰め込んだリュックを膝の上に乗せて、どんより曇った空を眺めながら電車に揺られていた。
そこは県内にある、静かで古風な建物が並ぶ観光地だった。
そんなに有名な場所じゃないけれど、湖が綺麗だと評判だったから写真を撮ろうと健斗が決めたのだ。
勢いのまま一人旅行を決めたが、一人で、しかも泊りがけの旅行なんて初めてだから、流石にちょっと緊張していた。
ただ緊張のおかげか、泣きたい気持ちにはあまりならずに済んでいた。
場所を変えると気持ちも変わるって聞いたことがあったけど、案外本当かもしれないなあなんて思った。
このままあの家に帰らなければ、健斗のことを忘れて、穏やかに過ごせるのかなあ。
聞き馴染みのない駅名が続いて、景色も田舎になったり街になったりを繰り返した。
退屈で、景色だけが変わるこの電車に、ずっと乗っていたい。
離れるたび、昨日まで苦しんでいたことすら離れてくれているような気すらした。
分厚い雲のせいで薄暗い外の景色すら、今は私に寄り添ってくれてる優しいものに見えた。
やがて目的地に着いたのは昼過ぎだった。
一応観光地を名乗ってるだけあって、街はそこそこ賑わっていた。
お腹は全然空かないけど、折角だからと古風な和菓子屋に入った。
お茶と饅頭を注文したら、奥の座敷の小さな座椅子とテーブルの席に通された。
注文したものはすぐに来て、私はいつも通りスマホで何枚か写真を撮った。
多少は食欲も回復してたけど、饅頭一つ食べ切っただけでお腹が疲れた感覚になった。
撮った写真を加工しているところに、メッセージの通知が来てドキッとした。
けれどすぐ瑠美乃からのメッセージだと分かってホッとする。
〈今日は大丈夫そう? 夕方からバイトだけどそれまでは空いてるから、何かやってほしいことあったら連絡してね〉
〈あ、無理して返信しなくていいからね!〉
思わずスマホを握る手が強くなった。
瑠美乃とは大学に入ってすぐ同じ講義で出会ってから、自然と話すようになった。
その頃からずっと瑠美乃は優しい人だと思ってたけど、こんなに実感するのは初めてだった。
〈わざわざありがとう。実は今は気分転換にちょっと一人で旅行してるの笑 昨日よりは全然落ち着いてるよ。昨日は迷惑かけて本当にごめんね〉
さっき撮った写真と一緒に送信すると、またすぐ返信が来た。
〈まさかの旅行!笑 まあ落ち着いてるなら良かった! 気になってつい連絡しちゃっただけだから、全然気にしないでー〉
瑠美乃の一つ一つの言葉が宝物みたいに心に入ってくる。
〈やばい、今は瑠美乃に感動してちょっと泣きそう笑〉
〈えー、なんか照れるじゃん笑〉
〈本当だよ、こんな私に優しくしてくれて、ありがとうね〉
〈そんなの気にしなくていいって! その、なんていうかさー〉
続けて瑠美乃からメッセージが届く。
〈今のひな見てるとさ、本気で人を好きになるって凄いことなんだなーって、本当に思ってるの!〉
不意を突かれたような感じがした。さらに立て続けに瑠美乃からメッセージが来る。
〈嫌味とかじゃ全然なくてさ、私はそこまでの恋をしたことがないから凄く尊敬しちゃって〉
〈だから私にできることはしたいの!〉
〈それはそれとして健斗さんは本当に酷いとも思っているけど!!〉
明るい瑠美乃の声が伝わって来るような気がした。
今の自分をそんな風に言われるなんて思ってもみなくて嬉しかった。
でも今、どろどろ渦巻いて私を苦しめているこれを「好き」っていう言葉に閉じ込めていいのか、自分ではよく分からなかった。
〈何か照れる笑〉
〈でも、瑠美乃にそう言ってもらえるのは本当に嬉しい〉
〈また進展したらちゃんと話すね〉
今度は私が一気に送ると〈いつでも待ってるからねー!〉と返信が来たのを確認して、私は店を出た。
それからは街並みを撮影したり、神社に立ち寄って木々を撮影したりして過ごした。
観光地らしい場所は今歩いている大通りの周辺だけだから、特に迷うことなく歩けた。
風が涼しくなり始めた季節で今日は日差しもないから、気持ち良かった。
「あ……」
ふと、湖の場所を指し示す看板が目についた。
健斗が行きたがった場所だ。
「晴れた日のここの湖、すっごい綺麗なんだって! 来月の旅行、ここにしようよ!」
ネットで拾った画像を興奮気味に見せられながら、健斗に語られたのを覚えている。
普段は私の言うことを聞くばかりの健斗だったから、自己主張してくれたのが何だか新鮮だった。
「そういえば、健斗は何でそんなに自然の写真を撮るのが好きなの?」
「んー……自然って思い通りにはできないじゃん? だからこそ、良い風景に出会った時がやっぱ嬉しいんだよね」
「ふーん……そういうもんなんだ」
「ひなはあんまり興味なさそうだよね」
「興味ないことはないけど、健斗ほどの熱量はないねえ」
「そっか……その、ひなが乗り気じゃないなら別のところにする?」
「いや、そんなに行きたいならそこで大丈夫だよ」
そんなやりとりの記憶を思い返しながら、湖の方へ向かった。
健斗は凄く私を大事にしてくれていた。
私のことをいつも気遣ってくれたし、我儘だって可能な限り叶えようしてくれた。
……だからこそ、喧嘩をしたのだ。
私がずっと楽しみにしていた映画を、一緒に行くよって口では言いつつ、内心興味なさそうなのが何となく伝わって、私は思わずムッとした。
興味ないなら無理しなくていいからって言うと健斗は慌てて訂正したけど、どの言葉もご機嫌取りなのが分かるから余計にムカついて、そのまま喧嘩になった。
本当に、今思えば些細なことだったと思う。
もしかしたら健斗はずっと無理していたのかな。
本当はしんどかったのかな。
後悔と自己嫌悪で気分が落ち込み始めた頃に丁度湖に着いた。
「……ま、こんなもんだよね」
思ってた通り、どんよりした天気のせいで特段綺麗な景色ではなかった。
湖の水は綺麗なようだけど、色味のない空の色を映して薄暗い。
人もポツポツといるくらいで、それが余計に風景を物寂しくさせているように思えた。
折角来たからと一応写真は撮ったものの、これといった感慨深さはなかった。
時間を確認するとチェックインの時間が近づいていたので、ホテルに向かった。
道中、楽しそうなカップルが妙に目に入ってきて、その度にどうしようもなく寂しくなっていった。いつまでもうじうじしている自分にいい加減うんざりしながら、大通りを少し外れたホテルに到着した。
部屋は一人用の安い部屋だから、小さなテーブルとベッドが部屋の大半だった。
荷物をおろしてすぐそのベッドに横たわった。
スマホで写真を見返して、今日撮った写真で気に入った何枚かをひとまず加工した。
それなりに綺麗になった写真をSNSに投稿しようと思って、特に言葉を入れずに写真だけで二枚投稿した。
それからルーティンみたいに他の人の投稿を眺めていたら、突然心臓がギュッと大きく鳴った。
〈オシャレなカフェでランチしてきた~!〉
その文言と一緒に、綺麗に盛り付けられた洋風のご飯の写真が載っていた。
紗耶先輩の投稿だ。
知ってる、知ってる。ここ、健斗のお気に入りのカフェだ。
身体中がゾワっとして、途端に息がおかしくなる。不意打ちだった。
沙耶先輩のアカウントをフォローはしてたけど、滅多に投稿しないから油断してた。
写真を隅々まで確認する。
誰といるかは分からない投稿は二時間前。紗耶先輩の投稿はそれだけだ。
確証はない。でも、でも今、健斗は紗耶先輩と一緒な気がしてならない。
やばい、やばい、どうしよう。
焦る気持ちをそのままに、健斗に連絡しようという衝動に駆られた。〈全然連絡ないけど進展はあったの?〉〈結局どうなりそう?〉〈今は何してるの?〉……書いては消して書いては消した。
結局送信ボタンを押す勇気が出なかった。
ランチが終わったのは2時間前なのに、なんで私に連絡がないの。もしかしてもう告白して付き合ったの。やめて。お願いだから。耐えられない。いや落ち着け、そもそも一緒にいない可能性だってあるんだから……。
気づけばスマホを見つめたまま、一時間近く経っていた。
どこかでその瞬間はもう永遠に来ない気がしてた。
でもこんなにも突然事態が変わって、どうすればいいのか全然分からない。
思考はふわふわまとまらなくて、心臓はドクドクと鳴って止む気配はない。
喉がきゅっとなって息が上手にできない。
ふつふつと沸きあがる訳も分からない衝動が熱くて堪らない。
やばい、無理だ。
とうとうホテルのカードキーとスマホだけ持って外に出た。
外は少し肌寒かった。
あてもなく、ただ無意味にさっき通った道を辿った。
気を紛らわそうと道中の雑貨屋さんに入ったり、立ち止まって深呼吸してみたりはするけど、結局動向が気になってついついSNSを開いてしまう。
連絡も新しい投稿もないことにそわそわして、鳴り止まない心音に煽られて、自分の思考を制御できない。
失敗してたらいいのに。段々そんな惨めな感情に支配されていた。
折角こんなところまで来たのに。
世界のどこにも、今の私が安らげる場所はない気がして怖くなった。
落ち着かなきゃ。落ち着かなきゃ……!
気づけ夕方は終わりかけていて、ぽつぽつ街のランプが点灯していた。
と、ふと大通りの一角が賑わっていることに気づいた。湖の周辺だった。
なんだろう?
そんなことを思ったけど、思っただけで気持ちは大して動いてなかった。
それでも習性みたいにちょっとした人混みをかき分けて大通りの角を曲ると、急に明るく景色が広がった。
「うわ……」
今度はちゃんと気持ちが揺れたのが分かった。
湖が、紫色になっていた。
真正面に見える雲が横長い隙間を作って、そこから夕日の眩しいオレンジ色が溢れている。
手前に薄く広がった雲はほの暗い紫色に染められて、湖はその色を鮮やかに反射している。
思わず湖に近づいた。
視界が紫とオレンジでいっぱいになる。
夕方と夜が混ざってるみたいな幻想的な光景に、心が無理やり吸い寄せられていく。
あぁ、綺麗だな。
こんなに綺麗なものを、こんなぐちゃぐちゃな気分で見ていることに混乱してしまいそうになる。
自然とスマホのカメラを起動した。
湖に沿って歩いて、色んな角度から写真を撮影し始めた。
景色の全部を写真に収めたいのに、それができないのが歯痒い。
段々オレンジが暗くなっていく代わりに、雲が少しだけ晴れていった。
今度は群青色が広がり始めた。
ふと顔を上げると、月が薄い雲を突き抜けるほど明るく光っていた。
夕方から夜に変わっていく、その全部の瞬間があまりにも眩い。
今の自分が持てる全部を使って、夢中で写真を撮った。
景色を真剣に見つめていると、段々と自分自身すらもこの景色の一部になっていくような感覚があった。
いや、私だけじゃない。
冷えていく風も、賑やかに写真を撮っている人達も、全部がこの景色に溶け込んでいく、そんな錯覚をおぼえた。
その時急に、もし健斗が沙耶先輩と付き合ったとしても、健斗が幸せになれるのならそれでもいいのかなって、そんな気持ちが心に浮かんだ。
……実際はそんな簡単に割り切れないだろうけど。
でも、それでもこの一瞬のこの気持ちは、本当だと思った。
満足するまで撮り終える頃には、心がざわざわしながらも少し気分が高揚していた。
少し景色を眺めてようやくホテルに戻ろうという気になった丁度その時、スマホが震えた。
〈紗耶先輩に振られました〉
自分の目が見開くのが分かった。健斗だった。
すぐにでも何か返信したい衝動を抑えて、少し時間を置く。
しかし一分経っても二分経っても、それ以上何も来ない。
もどかしくなる。それであなたはどうしたいのと問いただしたくなる。
すぐ返信するのが癪で、とりあえずホテルに戻ってからにしようと早足で歩いた。
ああ、安心している自分がいる。悔しい。紗耶先輩は健斗を拒絶してくれた。それに喜んでいる自分がいる。
苦しかった全部が嘘みたいに軽くなっている。それが堪らなく悔しい。
ホテルに戻ってすぐにスマホを開いた。
相変わらず健斗からの連絡は来ていない。
迷いなく文章を打つ。
〈じゃあもう一度、私と付き合って下さい〉
送信して、すぐにもう一文を書く。
〈今ちょっと家を離れてていないけど、明日の昼には帰るから、返事がどっちでも明日時間を作って欲しい〉
そう送ると、健斗から立て続けに返信が来た。
〈分かりました〉
〈明日の帰る時間が分かったら教えてください〉
〈本当にごめんなさい〉
他人行儀な敬語に少しだけイラッとした。けれどその後に、
〈ありがとう〉
と来て、気持ちが込み上げてまた涙が流れ始めた。
毎日沢山泣いたどの涙とも違うと感じた。
そして私が誰かに恋したせいでこんなに泣くことは、きっともう二度とないと思った。
涙を拭って、ベッドに横たわった。
鼻をすすりながら、写真フォルダを開いた。
さっき撮った写真たちを見返すとどれも綺麗に撮れていて、思わず笑みを浮かべた。
SNSにあげようかと考えたけど、結局あげなかった。
せめてこの旅行中は私だけのものにしていたくなった。
そんなことを考えながら何度も写真を眺めて、気づけばそのまま眠りについていた。
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