素心忘るべからず
白梅は二分咲き。
しだれ梅はピンク色の花を枝先で一輪綻ばせ、蕾たちに後へ続くようにと手本を見せている。
里山の時間は、ゆっくりと流れている。
人々は柔らかな陽ざしに眼を細めながら、散策や写真を撮ることを楽しんでいる。
今日の目的地は咲き始めた梅ではない。
足早に里山の一番奥へと向かう。
やはり...、予想した通り満開だ。
マスクを半分ずらし、鼻と口を出してから、古いデジカメを取り出して、どこから写真を撮ろうかと構えてみる。
甘い香りを一緒に楽しむのが、この花の写真を撮る醍醐味だ。
自然と頬が緩む。
近くで母娘が、時々立ち止まって綻んだ梅の花を見上げている。
一人は杖を付き、もう一人が見守るようにゆっくりと歩いている。
どうやらリハビリを兼ねて散策をしに来ているようだ。
母娘は人の気配に気づいたのか軽く会釈をして、こちらに向かって歩みを進めて来る。
知らない者同士でも、挨拶を交わすのは山での暗黙のルール。
春を先駆けて満開になった素心蝋梅(ソシンロウバイ)の元へ母娘もやって来る。
娘はスマホを取り出して写真を撮り始めたが、母はそれに気付かず先へ歩みを進めてしまう。
歩くことに集中しないと、上手く歩行が出来ないのかもしれない。
娘が近くに居ないことに気付いたのか、ハッとして歩みを止めて振り返ったところで目が合った。
娘が夢中で写真を撮っていることを知り、少し困ったような顔で微笑んだ。
『ここで写真を撮るときは、マスクをずらすと良いんですよ。』と声をかけ、素心蝋梅を嗅いで見せる。
母娘は顔を見合わせて、同じようにマスクをずらし、香りを嗅いで目を見開いた。
素心蝋梅が、こんなにも強く甘く香ることを知らなかったらしい。
良いことを教えてくれてありがとう、と言ってもう一度深く香りを吸い込み、また散策を兼ねたリハビリ歩行のため母娘並んで歩いて行った。
長い間のマスク生活は、私たちに花が香ることを忘れさせてしまった。
素心蝋梅の素心とは、普段から心に抱いている考えや志しのことをいう。
流行している感染症の分類が、5月に変更された。
感染が拡大しないように普段から心がけていることは、もちろん大切ではあるが、花が香ることも忘れてはならない心の中に抱いておきたいことじゃないかと思うのです。
あなたが心の中に抱く大切にしている考えや志しは、どんなことなのでしょうか?
素心も忘るべからず….。