hatamin
Instagramに投稿した写真と雑感。 noteやTwitterの140字では少し足りない。 そんな気持ちを写真と一緒に載せて…。
小さくなったいい匂いの消しゴム、海で拾った丸くなったガラス、お菓子の包装紙どれも大切で捨てられないもの お菓子の空き箱に入れて取っておいた、あの日の宝物をそっと開けて確認するような...
なんだか久々の涙活をしてました。 相変わらずの読書で、相変わらずのジャンルレスですが、今回は少女漫画での涙活。 ちなみに少女漫画の全盛期は1970年~2000年と書いてあり、おっと! 現在でも少女漫画という表現はあるものの、すんなり出てきてしまうしてしまう世代っていうことに、ちょっと焦りましたww 少女漫画の世界っていうのは、有り得ないことが当然のように描かれている。 うん、まあ、ファンタジーというかSFというか、ちょっと解せないところを多めに見ないと楽しめない。
子どものころ 対義語がもの凄く苦手で どうして高いの反対が低いなのか 全然、理解できなかった 高いの反対は、高くないが正解だよね? 好きの反対が嫌いじゃなくて 好きじゃないだったら 相手を傷つけない言葉に替えられると思うんだけどなぁ 赤くないってことは 何色でも自由ってことだよね
書きたいんだけど 徒然に書きたいんだよね ま、だから纏らないってのも あるんだけどね そして今夜も 書き始めては消す .
都心の正午過ぎに ビル街を歩くと ドッと汗が出る 真上からの太陽に 照りつけられて 日陰を求めたはずなのに 気付けば 日向の輝きに魅せられて キラキラと反射する 草花に見入ってしまう なにやってんだか... なんて自分でも 半ば呆れながら 写真に収めた
なんでも自由に 発言して良いが 140文字以内という 不便な制限のある国があった ある日 発言内容を読むことにも 制限が加わり 困った文字読み書きの民が この国へ 移民し始めた 私もPCのキーボードを抱き その移民の列に並ぶ 新しい国での 文字との出逢いを 期待しながら
白梅は二分咲き。 しだれ梅はピンク色の花を枝先で一輪綻ばせ、蕾たちに後へ続くようにと手本を見せている。 里山の時間は、ゆっくりと流れている。 人々は柔らかな陽ざしに眼を細めながら、散策や写真を撮ることを楽しんでいる。 今日の目的地は咲き始めた梅ではない。 足早に里山の一番奥へと向かう。 やはり...、予想した通り満開だ。 マスクを半分ずらし、鼻と口を出してから、古いデジカメを取り出して、どこから写真を撮ろうかと構えてみる。 甘い香りを一緒に楽しむのが、この花の写真を撮
昼の月の顔と、夜の月の顔は少し違う。 夕焼けの始まったばかりの空は、碧さが残っている。 ふくよかな丸い月は、周りの色彩に溶け込んで、強く主張することも無く馴染んでいる。 太陽が主役であることを認め、彩り豊かな街並みを眺め、ファッションのように雲を纏う。 太陽に変わって暗闇を照らす、使命感溢れる夜の月も素敵だと思うけれど、気負わない装いの、こんな昼の月を見るのが好きだ。 まだ明るい夕方の時間帯の月は、使命を全うする夜へと向かう通勤途中なのかもしれない。 家を出て、それ
数年周期で、どうしようもなく読書にのめり込む時期がある。 今、ここ5~6年治まっていた読書熱が再燃している。 実はコレ、私にとってはあまり良い状態では無い。 とにかく小説ばかりを立て続けに読む、という状態の時は精神的なストレスが高まっている時に起こる現象なのだ。 人間、ストレスが高まると、自然に「心を保つ」という調整機能が働くものだ。 仕事や家事などの必要最低限のことをする以外は読書する。 私にとっての読書は、時間を浪費して、現実から離れて心を保とうとする行為。 小
今、平衡感覚を失っていて、強い眩暈を感じているんです。 心配しないで欲しいのは、病気になったんじゃないんです。 たぶん、何かが変わろうとしているときなんです。 感覚的な表現なのですが、何かが変わろうとしている時って、眩暈を感じるんじゃないかと思うんです。 新しい知識が流入し始め、少し古いスポンジの脳が、吸収するのに苦労しながらも、新鮮さにクラクラする感じは、その兆しです。 この眩暈の特徴は、物凄く淋しい気持ちを伴うんです。 新しい知識の理解と、それとともに出会った新
夕方の春驟雨(はるしゅうう)にツツジはみな濡れそぼる。 春驟雨(はるしゅうう)は雷を伴う夕立のような激しい春の豪雨のことです。 30分もすると激しい雨は収まり、空はそのまま暗くなって夜を迎えました。 雨に濡れている花の姿は、とても色っぽく見えるのですが、泣いているようにも見えます。 ここ数年、ネガティブ思考脱却のために、ずいぶん考え方を変えて来たのですが、ときどき私の心の中にも春驟雨が降ってしまうことがあります。 ところが春驟雨の涙の後、妙に空気が澄んで、少しスッキ
日本は今、本当に平和なのだろうか? ここ数日、友人と戦争を話題にすることが増えています。 もしも戦争で、銃口を向けられたら、あなたならどんな行動をとりますか? 戦争や事故など、唐突に「死」を突き付けられた極限状態のとき、死生観もまた問われるのです。 命あるものの最後は、どんな形になっても必ず「死」です。 今のところ、不老不死の薬は発見されていないし、人の生き血を啜っても、永遠の命を生きるドラキュラにはなれないようです。 「死」は最後ですから、「死」を考えることは「
春が来た、というのに私の心を占めていたのは、とても私的で小さく身近な問題でした。 仕事の中で起きていた、ちょっとした闘いに負けたんです。 あ、別にケンカしたとか、言い争ったというようなものではありません。 ある仕事に立候補したのですが、私は担当になれなかったのです。 当初、この仕事の担当になるのは、ほぼ私で決定していました。 しかし、もう一人の立候補者の思い入れが強いことも知っていました。 なので、そのもう一人が担当になること自体は構わないのです。 そうは言っても数
今年の初め、唐突に「変わっちゃうかもしれない」と思ったんです。 何がどう変わるのか、どうしてそう思ったのか、自分でも分からないのだけど、インスピレーションて言うのかしら...? 去年まで私を創っていた何かが、変わってしまうんじゃないかと、ふと思ったんですよね。 自分を創っているものって、自分が好きだと思っているコトやモノだと思うんです。 自分の中には、好きなコトやモノを感じ取るアンテナがあって。 だから近づいて来たり、匂いがしたりするとアンテナに触れてピン!と来るわ
どうしてもどうしても使いたくない言葉がある。 なのに今日は口を開いたら、その言葉を言ってしまいそう。 この言葉を誰かに言ってしまうと、とても申し訳ない気持ちになってしまって、ものすごく後悔する。 だからここで、ちょっと吐き出して、誰かに向かってこの言葉を言わなくて済むようにしようと、夜中にコッソリ書いてみることにした。 実は「疲れた」という言葉を使うのがキライだ。 「疲れた」は楽しくても感じてしまうのが厄介なんだと思う。 例えば、大好きな人と話したり、会ったりする
私たちの職業は、とかくお節介な性質(たち)の人が多いという、友人との話に笑っていたのですが、少し思うところがありました。 先週、クリスマスの写真を連投した理由を書きましたが、実はあの行為はお節介なんです。 お節介は善意で行われることが多いです。 でもお節介の善意は、相手にフィットしていないこともあったりします。 世の中がクリスマスだ年末年始だと騒ぐたびに、その中に入って行かれない自分を感じたりすることはありませんか? この時期に孤独感を強めて過ごす人が多いのも、そん
今回、クリスマスの写真を連投したのは、実は少し考えがあってのことだったんです。 Twitterでは5日間に渡って、一枚づつ投稿したのですが、私のフォロワーさんにALSの患者さんが2人いらっしゃることが、この投稿のきっかけだったんです。 自由に体を動かせることが出来ない、その人たちも、少しは外出してクリスマスのイルミネーションを眺めているような気持ちになれないかなと、思ったのです。 実際に身体的に動けない人ばかりではなく、精神的な疾患から外に出るのが怖くなってしまって、気