ローベルト・ヴァルザーのある詩について

 本はいつ読んだっていいものだが、やはり季節というものはある。ヴァルザーは秋である。空が高くなってくると、ヴァルザーが読みたくなる。本人が散歩の人だったことも関係あるのかもしれない。ヴァルザーは生涯歩き続けた。ベルリンからスイスに帰るときには、歩いて国境を越えもした。しかしヴァルザーは秋ばかり散歩していたわけではないだろう。ヴァルザーは窓辺の人でもあった。彼のよき理解者のひとりであるカフカと同じように。窓辺の人はあこがれる人である。気ままな人でもある。

 ぼくは忘れられた遠い場所を
 歩むべく定められている。

 彼の中にはいつでも、いつまでも一つの小径があった。小径こそが生涯の道だった。大通りには目もくれなかった。というのは無論嘘であるが、その道を、彼は疲れ果ててスイス山中の雪原で仰向けに倒れてしまうまで歩き続けた。歩きながら立ち止ることを、やすらぐことを求めていた。
 彼は演じる人でもあった。早いうちから演劇に興味を持ち、少年時代にはシラーの『群盗』に熱狂した。画家であった兄カール・ヴァルザーによる、『群盗』の主人公カール・モールの衣装を身につけた姿の肖像画も残っている。青年時代にはかなり真剣に俳優を志しもしていたようである。そのせいか、彼のふるまいには多分に演劇的なところがある。無論狂いがふるまいに及んでいたといえばそれまでだ。しかし少なくともこの作品においては、彼は確かに演じている。

 ぼくの人生の浮き沈みは
 なんと奇妙なものだろう。
 せっかく自分に手招きしてくれるものがあって  
    も、
 いつもぼくは、自分がそこから抜け出て、漂い.  
    出すのを見る。

 ぼくは自分が哄笑に、
 深い悲嘆に、
 やたらお喋り好きな人間になりかわっているの
    を見る、——
 こんなものはすべていずれは沈み込んでしま
    う。

 どんな時もぼくは、
 おそらく一度として適切にふるまったことがな 
    いのだ。

 彼は自分のふるまいを、背後から見つめている。だからだろう、彼がいくら深い悲しみを嘆こうとも、そのことばは多幸感に満ちている。どこまでも気ままに散歩する人の、踏み出した足がそのまま最善になる人の多幸感なのだ。演じることが作品に留まらなくなったとき、世界が舞台になったとき、人は狂う。本人だけがそのことを知らない。演じていることを、もう忘れている。受肉というよりは、忘却であり恍惚である。

 ぼくは忘れられた遠い場所を
 歩むべく定められている。

 その場所は本当はいつか来た道なのだ。だから、何度でもさしかかる道でもある。
 彼は盗む人でもあった。シラー、ヘルダーリン、スタンダール、ドストエフスキーといった文豪たちの作品からだけでなく、キオスクの通俗小説からも惜しみなく盗んだ。盗作について、若い頃は特に熱心にことばを闘わせてもいたようだ。けれどもそのことばを当の本人が、どこか本気にしていなかった。レッスンじみていた。それも本番のないレッスンだ。盗まれたものは、盗まれたことによって、盗まれた分だけは価値を持つ、ということも確かにあるだろう。しかし彼は盗んでしまえば、盗んだものにそれ以上の価値は見いだせず、置いていった。画に描かれたものを、画から取り出してみたかっただけだった。
 振り返れば、歩んできた一つ一つの歩が、光り輝く正しさを帯びて、過去にたなびいたことだろう。しかし彼は振り返りはしなかった。演じる人の目は前を行く自分自身に据えられている。その背中を追いかける足取りは、どこまでもひたむきだった。

  一九二九年に彼は、自分を嘲弄する声が追
 いかけてくる、何回も自殺を企てたが、未遂に
 終わった、などと訴えて、ベルン近郊のヴァル
 ダウ療養所に入院した。同じ年にヴァルター・
 ベンヤミンのヴァルザー論が書かれている。
  一九三三年にスイスのヘリザウの療養所に移
 されることになった。カールともう一人の兄
 オスカルは、ヴァルザーは精神に異常はなく、
 文学的著述をとどこおりなく続けている、その
 ためとりたてて深刻な症状とは見受けられない
 との理由から、それ以上療養費を払うことを拒
 否した。ヴァルザーはこの年以来執筆を完全に
 停止した。
  一九五六年一二月二五日、病院の近くの雪山
 を散策中、急死した。(「ヴァルザーは仰向け
 ざまに倒れていた。右の手を発作を起こした心
 臓に当て、左手は固く握りしめたまま長く伸ば
 していた。すこし離れたところに帽子が落ちて
 いた」——カール・ゼーリヒ)

 この場面が既に死の半世紀近く前に『タンナー兄弟姉妹』で詩人ゼバスチャンの死として先取りされていたのはよく知られている。舞台役者がその役を演じきったことになる。後には詩と、小品と、膨大なのとりとめのない文章が残された。今日本語で手に取ることができるものは、それほど多くはないかもしれない。しかし我々は何度でもそれを読むことができる。

 ぼくは忘れられた遠い場所を
 歩むべく定められている。

 何度でも。


https://www.msz.co.jp/book/detail/08042/



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