あの日から30年が経過した。

1995年1月17日午前5時46分。
阪神淡路大震災だ。

あの時、二十歳だった私が体験したことを、ずっと子供達に伝えてきた。
大勢の方の命が失われたあの震災で私が体験したことを、生き残った私がこれからを生きる子供達に伝えることは、自分の責務であるようにずっと感じていた。

だが、今年は伝えるべき相手がもういない。
30年という区切りの年であったとしても、この北海道にいては、さして話題にあがるようなこともない。
この極めて日常に埋もれてしまいそうな今日という日に、あらためて書き残しておこうと思う。

あの時、私は二十歳の大学生であった。
かつて1月15日が成人の日であり、大量の二十歳の若人が誕生した神戸では、成人式が二部制で行われていた。
あの時のゲストがBeginであったことは今でも覚えており、ずっとファンで居続けている。

さて、1月17日といえば、成人式を終えて、夜通し酒を飲んで、カラオケを歌いまくっていた翌々日。

神戸市東灘区の自宅の1階の自室で寝ていた。
私は、一度眠りに落ちると、たいがいのことでは目が覚めることがないくらい深い眠りに落ちる。
意識のどこか遠いところで、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

父の声だ。
「大丈夫か!」

何が大丈夫かだよ、と当時反抗期真っ最中だった、父への苛立ちと早朝に起こされた腹立たしさから、ようやくふとんから出ようとした時、そのふとんがめくれないことに気がついた。

ふとんから顔を出し、あたりをうかがうと、うっすらと浮かび上がってきたのは、ふとんの横にあったはずのタンスであった。
タンスがふとんの上に倒れてきていたのであった。

はいずり出て、心配する父の声に「大丈夫」と答えた。
何が起こったのか、すぐには分からなかったが、なんとなく自分が揺れているような気がした。

後からわかったことだが、大きな縦揺れには気がついておらず、その後続いた横揺れの終わりの方に私は起きたらしい。
私の家は震度7で揺れていたことを思うと、そんな状態でも寝続けていた自分の神経の図太さに驚かされた。

2階で寝ていた父や兄と合流し、家の中を確認したが、台所にあった食器棚は引き戸であったためか、食器が飛び出してはきていなかった。
もちろん中はぐちゃぐちゃになっていたため、引き戸を開けた拍子に転げ落ちてきたグラスが一つ割れてしまった。

家の中の異常は、まだ暗かったこともあって、大してひどいことになってはいなかった。
すぐに頭に浮かんだのは母のことであった。

当時、近くのアパートを借りて、家具の一部の置いてあった。
運悪く、その日、母は荷物の整理のため、そのアパートで寝ていた。

携帯電話などまだ主流ではなかった当時、固定電話も置いていなかったそのアパートの様子を知るために、家を出てかけだした。

自宅のある通りは、ぱっと見て異常は感じられなかった。
後になって分かったことだが、自宅を含むこのあたり一帯があったところは、かつて池であった。その池に大量のコンクリートを流し込んで、その上に工場を建てていた。やがて、その工場跡地に分譲住宅が建ったのがこのあたり一帯だったのだ。
だから、震度7で揺れていたとしても、比較的被害が少なかったのかもしれない。

そんなことを考えることもなく、アパートめがけて走り出したその瞬間、ふいに大きくころんでしまった。
膝をひどくぶつけて、呻いて足元を見ると、なんとアスファルトの道路が割れていたのだ。それに足をひっかけて転んだのだ。

自宅のある通りより一本南側の通りの電柱が傾いていた。
足元に気をつけながら、走るスピードをあげて、夢中で走り出していた。
見えてくるいつもの景色は一変していた。
古いアパートは崩れ、2階が1階になっていた。
倒れている電柱もあり、戸建ての屋根が落ちていた。

母のいるアパートは古い木造のアパートだ。
到着する前に、絶望的な気持ちになっていた。

ここにあったのだろうというところまで走り寄った時、案の定、母のいるはずの1階は埋もれてしまっていた。
2階すら落ち、瓦礫の山となっていたのだ。

遅れて到着した父と兄で、捜索にかかった。
瓦礫の中からいくつかの手が出ていた。
今から思えば、その人たちの救出からするべきだったのだろう。
しかし、当時の私は、母のことをまず思っていた。
他の人に、救出をまかせ、母のいたはずの部屋の上あたりの瓦礫を放り投げていた。

すると、どこからともなく目覚まし時計の音が聞こえてきた。
私もこのアパートで泊まったていたこともあったので、この音に聞き覚えがある。

父と兄と、「ここだ!」と集中的に瓦礫を掘りまくった。
すると、ぽっかりとできた空間にたどりつき、なんと、母を発見したのだ。
なんとか母を引っ張り出し、うっすらと明るくなってきたそばのマンションの玄関の階段に座らせた。

あの瓦礫の山から救出できたことも十分驚きに値するが、さらに衝撃だったのは、怪我を一つもしていなかったことだ。

アパートには、古い家具が所狭しと置いてあった。
古い立派な足のついたブラウン管テレビと嫁入り道具だった重厚感のある桐のタンスの間にふとんを敷いて寝ていた母。
テレビにたおりかかったタンスでできた空間で母はつぶされずにいたのだ。
まさに奇跡であった。

その後のことは、よく覚えていない。
あとからニュースで知ったことだが、自宅とアパートのあった神戸市東灘区は、建物の倒壊による圧死で亡くなられた方が、非常に多かった。
母だって、奇跡が起きていなかったとしたら、そのうちの一人となっていたことだろう。

公務員であった父と赤十字病院職員であった兄は、すぐに仕事に行き、私と母ともう一人の病気の兄は、ライフラインがすべて止まった自宅で震えながら過ごしていた。

ここまでが、30年前の1月17日の私の記憶である。

天災によって分けられた生と死。
生かされた命。
明日もこの命が続いているかなんて、誰にも分からない。
日常に忙しく生きている毎日だからこそ、この日くらいはこのことを考え、感謝しながら、これからも精一杯生きていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!