ニワトリさんごめん。命のリアリティーを感じました。
夏は沢山の昆虫がいますね。けれど「蝶」も「セミ」も成虫は1週間も生きられない。「カゲロウ」は半日で命が果てると言われます。
生物はそれでも生きようとする。
それが命です。
しかし現代の人間はどうでしょうか?
病院で出産して、病院で亡くなる人がほとんどで、命の誕生と終わりを感じられることが遠ざかっているように思います。
本当にそれで良いんでしょうか?
命のリアリティーが感じられずに生きているとどうしても、それを軽んじる社会になっていく気がして仕方がありません。他人を傷つけても平気なメンタリティの人が増えたり、自分の命さえも軽く考える傾向の人が多くなったりと。1年間に2万人を超える人が、自ら命を断つ日本社会は健全とは思えないです。
実は僕、命を考えさせられる経験をしたことがあるんです。15年くらい前に「ニワトリ」を自分の手で潰して食べたことがありました。
当時、僕は空手を習っていました。師匠から「お前の技には生きている実感が薄い。自分の業を知っているのか?」とよく言われていたんです。本で読んで言葉は知ってたけど、自身の業の実感はありませんでした。
そして、師匠と近所同士で田舎暮らしをしていた僕らのところに、近所の精肉店を通して「生きている名古屋コーチン」2羽が届けられました。
そしてある日の稽古終わりに師匠が「鶏を潰して鍋にでもするかー」と。
なっ、なんと!とても嫌な予感!😰😰😰
案の定、予感は的中し「手ほどきを教えるからお前が潰せ!」と厳命が下りました。正直「まじかー」と。でも逆らうことは出来ず、渋々始めました。
まず、捕まえた鳥の羽を、逆側へ目一杯に交差させて文字通り「羽交い締め」にしたあと、力を入れて「ボキっ!」と骨を折ります。すると暴れることが出来なくなる。そして脚を持って逆さ吊りにして、荒縄で木の枝に縛りつけたあと、鶏冠(トサカ)を引っ張って、首に研いだ出刃包丁を突き立て一気に「グサッ」と止めを刺す。
首から、鮮血を撒き散らし「ぐるぐる」と暴れること約5分。白目を剥いて、それが徐々に虚ろになっていき、そして鶏は絶命しました。
僕は絶命までの「鶏の目」が今だに忘れられません。毎日当たり前のようにしている食事が本当に命をいただいているんですね。そして自分が手を下さなければ、誰かが仕事としてやっているんだと。それ以来、欲に負けて色々と失敗をやらかす度に「僕はなんと罪深い存在なんだ」と感じるようになりました。
いま思うと師匠は、僕に己の罪深さを感じさせるために、鶏を潰させたんだろうと。そして命を実感することで、命がけの勝負に挑める心を持て!とのメッセージだったようにも感じました。それにしてもあまりに壮絶な光景で、自らの手で鳥獣の屠殺を、僕は他人に勧めることはないです。
でも、人間は動植物の生命を頂かずに命を繋げません。生きていくには、否が応でも命を感じざるを得ない。命を感じるとは、命には終わりがあるのを腹の底から実感することでしょう。想像力を最大限に発揮して「命のリアリティー」を感じながら生きていけば、他人も自分も傷つけるという、大きな過ちは犯さずに済むのではないでしょうか?
今回は長くなってしまいました。それではこの辺で。
じゃあまた!👋👋👋
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