沖縄の過去の堆積と現在-月ぬ走いや、馬ぬ走いを読んで-
沖縄の遠くない過去に戦争があったこと。
事実として当然知っていて、私もこの島で生きてきた。
この本を通して、戦禍を経験した人たちが現在も暮らしていて、今に影響を与えていることをまざまざと感じさせられた。
豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」は、現役大学生が書き、群青新人文学賞を受賞した話題の一冊である。1人で書いたとは思えない憑依したような文体は、最初、読みにくさも感じたが、まずは全部読んでほしいと思う。
全て一人称で語られる言葉は、フィクションでありながら、リアルで、語る人物の姿を浮かび上がらせる。様々な人が一人称で語り、繋がっていく物語になっている。大きく過去の語りと現代の語りに分けられ、行き来しながら物語が進む。
戦禍の記憶、過去の記憶は、死が隣り合わせの時代の語りであり、すぐそばに暴力がある時代に生きていた人を描く。
過去のパートを読んでいると、私はどれだけ恵まれたなかにいて、生存のための悩みはなく、日々を送っていることを思い知らされる。
その一方で、戦争はとても近い過去であり、その時代を生きた人が今もいることを思い出させた。
現在のパートは生きることを脅かされない、過去の戦禍を生きることに比べ、語られる悩みは大したことのないことだ、と最初は感じたが、読み進めていくうちに、過去の負の遺産と暴力が現在に繋がっているということを考えさせられたし、これは逃れられない過去だと感じた。性と身体、そして暴力は、現在においても生存に直結する問題なのだ。
基地問題や米兵の暴力事件など、直接的で大きな問題もそうだが、岸政彦の「同化と他者化」や、打越正行の「ヤンキーと地元」、上間陽子の「裸足で逃げる」で書かれているような社会構造が現在の沖縄にあることを思い知らされる。
個々人の生活に大きな影響を与えていることは、今だけを見てもわからないが、今を生きる人の過去と記憶には暴力があるのだと感じた。
負の遺産が多くありながら、苦しみ、生きる現在の沖縄だが、この本では沖縄に根付く先祖崇拝も描き、今を生きている人の強さも感じた。それは、タイトルにもなっている沖縄の言葉が救いや希望になっていくことが書かれている。
私自身の宗教観は、先祖崇拝であり、過去が積み重なっての今があるという価値観を持っている。子どもの頃の記憶もほとんどないが、忘れたとしても私がしてきたことが今の自分をつくっていると思っている。それは私だけでなく、私の両親、そして戦争を生き延びたおじい、おばあと繋がって、私がいるということ。おじいが語らず亡くなった戦禍の記憶は、自身が受けた暴力だけでなく、してきた暴力もあり、今の私のどこかにあるのだと思う。
それでも、おばあが父を産み、母と結婚し、私が生まれた。人の営みが続く限り、現在をつくっているということだと考えている。
私に埋もれている暴力の構造は何か、私の希望の言葉は何か、何を知り、考え、今の沖縄で生きていくのか、過去の堆積のうえにある私は、ここで生まれる言葉に希望を持つことを忘れず生きていきたいと思う。