伏線ではなく、積み重ね
2024年の大河ドラマ『光る君へ』も、気がつけば物語の幕が近づいている。
先週11月17日(日)放送回の「望月の夜」では、ついに藤原道長のあの歌が炸裂した。
凄まじい権力を握っていたんですね、と歴史の授業で習う、あの歌だ。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」
NHKの特設サイト内のこちらの記事(をしへて! 倉本一宏さん ~この世をば! 一家三后と藤原道長の「望月の歌」)にある通り、権力者のおっちゃんが酔っ払っていい気分で詠んだ歌だ。
超意訳してしまえば、「俺さまの権力はー?絶っ対っ!」みたいな。
兎にも角にも、権力を持った政治家の当時のご様子を伝えるエピソードとして紹介されることが多い。
一方で、この歌については新しい解釈があり、そこまで傲慢な気持ちだったのではないのではないか、みたいな話もある。
こちらの読売新聞オンラインの記事(この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは)と合わせて考えると、詠まれたのが十六夜(天文学的には満月から半日後でほとんど満月であったことが記事の末尾で補足されている)の、立后の儀の二次会的な立ち位置である「穏座」であることから、もう少し穏やかな意味の、技巧あふれる歌としても解釈できる。
後一条天皇がお生まれになったときに紫式部が詠んだ「めづらしき 光さしそふさかづきは もちながらこそ千代もめぐらめ」も踏まえた歌でもあるならば、月は皇后の暗喩であるだけでなく盃との掛詞にもなり、宴席で盃の回し飲みをし結束を固め合えたことの喜びでもあるかもしれない。
紫式部の『源氏物語』により開かれた権力者への道の到達点であることも考えると、紫式部への長い時間をかけた返歌にもなっているかもしれず、『光る君へ』のストーリー的にもグッとくる。
このドラマを一年近くかけて追いかけてきた視聴者にとっては、道長とまひろ(紫式部。物語の中では藤式部)の初めての夜のことをプレイバックさせる映像での演出も語りたくなるポイントになった。
つまり、この大河ドラマという物語においても、一つの到達点のようなシーンだったわけである。
感動というよりも、感慨深い、という感覚だ。
難しいのは、この感動を伝えようと思っても、「今週の大河すごく面白かったから、見逃し配信で見てみてよ」というわけにはいかないということだ。
もちろん、映像の美しさや、俳優陣の演技の素晴らしさなど、褒めるべき点はいくつもある。美術セットや小道具へのこだわりも一流だ。
見どころも楽しみ方も、一通りではない。
しかし「面白いから見てみてよ」と勧められた人が『光る君へ』をこの回から見始めたとしても、「ああ、あの有名な歌が出てくる回だったんだね」以上の感想を期待できるのだろうか。
「感慨深い」という感覚は、仕掛けや伏線の回収ではなく、積み重ねによる世界観との信頼関係があってはじめて成り立つもののような気がする。
するとそれは、大河ドラマという時間を味方につける形式の物語を1年かけて追い続けてきたからこそ、味わえたものなのかもしれない。
だから、面白かったから見てみてよと誰かに伝えても、なかなか共有ができないんだろうなと思う。
もう1ヶ月ほどで2024年も終わりを迎える。
11ヶ月かけて積み重なってきた物語の更新が、もう間もなく止まるということである。
終わることは一つの寂しさである一方で、余韻を生み出すための前提でもある。
物語の余韻もまた、時間を共有してきたことへのご褒美かもしれない。
今日含めあと4回となった大河ドラマ『光る君へ』の放送を、見届けたいと思う。