【#シロクマ文芸部】金輪際走らねぇ
走らない、と決めたからには絶対に走らない。
男はちょっと意地悪な気持ちになったんですね。
きっかけは、手にしていた湯飲みでした。
おどけて走った拍子に中の般若湯がこぼれたもんで、おかみさんが
「もったいない!今日の分はこれきりなのに!」
と叫んだんです。
仕事が終わって長屋のみんなと他愛もない話を楽しんでいる最中にそんなこと言われたもんだから、男はヘソを曲げちまってね。
「俺は金輪際走らねぇ!」
となりまして。
売り言葉に買い言葉でおかみさんも
「ああそうかい!ならそうなさいな!」
となってね。
長屋のみんなもよくある夫婦喧嘩だって笑っていたんですが、この男、その日から全く走らなくなっちまって。
「ちょいとお前さん!瓶に水を入れてくれないかい?」
「おーう」
おかみさんの頼みに笑顔で答えて外に出るんだが、一向に帰って来ない。どうしたもんだって、おかみさんが見に行くとそろーりそろーりと歩く旦那が目に入る。
「ちょっとぉ、夕餉の支度が間に合わないすよぅ」
「走ると井戸の水がこぼれるだろう?」
「ああ!もう!貸しなよ!」
と結局おかみさんが水を汲みに行く、男はニヤニヤ。
こんな日が続いたんです。
「おう!お前はいつまでふざけているだ?」
井戸から水をうんうんうなりながら運んでいるおかみさんを見て不憫になったのでしょう。隣の住人が声をかけます。
「俺はふざけてねぇし、手伝いはいくらでもするって言うのによ。あいつがなにもさせねぇんだ。俺はあいつの言うとおりに動いているだけなんだがね」
あんまり調子に乗るなようとの声も響かないようで、男は涼しい顔。
「お前さん、そこまで仕立物を届けに行ってくるよ……」
お~うと答えながら、恋女房の少しやつれた顔を見送ります。ただちょっと胸がチクッとなったもんで、そろそろ許してやろうかなどと考え始めていると、おかみさんの井戸端会議仲間が泡を食って長屋に飛び込んできました。
「た、大変だよ!そこの横丁で大八車が……」
ここまで聞いた男は雷に打たれたように飛び起きものすごい勢いで外に駆け出していきました。
横丁では大八車の荷が散らばっています。子どもの泣き声も聞こえてくる中、目に飛び込んだのは見慣れた着物。人混みで見えにくくはありますが、あれは絶対!
「で、でぇじょうぶかっ!」
息せききった男の目の前にはキョトンとした顔のおかみさん。
腕の中には小さな男の子が。
「この子が……下敷きになっちまいそうだったから……」
「よ……良かった……」
「お前さん、走ってきてくれたのかい?」
「あ、当ったり前よ……」
元々は仲の良い夫婦です。
走る走らないのいざこざはどこへやら。
今では仲良く暮らしております。
お題の「走らない」と聞いてなんとなく江戸の長屋が思い浮かびました。まだ、「らんまん」の影響が色濃く残っているようです。
小牧幸助部長、今週も部活動楽しかったです😊