母の旅立ち、私の見送りへの道 入院編⑧ 3/1~3/2 (看取りまでの24時間) 第21回/全35回
この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。
母の旅立ちまでの道のりもいよいよ最後。8月下旬に身体の異変を感じてからおよそ7か月にあたるこの日の母はついに旅立ちの時を迎えた。今回は母が戦った最後の夜の様子と、私が母に残した最終的なメッセージ(手紙)をそのまま掲載してみます。
3/1 金 S病院 入院32日目【最後の付き添い(泊まり)】
9:50
S病院から私の携帯電話に連絡あり。
だが仕事中で電話に出れず(職場内は携帯電話持ち込み禁止の為)。
(朝に呼吸の間隔が長くなっている事(そろそろという意味)を確認したとの事)
14:00
病院到着。
入室前に看護師さんから電話をした経緯を含めての状況説明あり。
14:10
入室 眠っている…
14:20
脚マッサージ 手足にクリーム塗る
14:30
話しかけてみるが反応なし…
15:15
清拭、着替え
(新調の前開きの肌着着用してもらう)
15:45
担当医(T先生)より現状説明。
そろそろ…という事で、付き添い(泊まり)の同意書を書く
17:00~
以降深夜まで1時間おきに脚マッサージ
翌日2:00~5:00
1時間おきに脚マッサージ
AM6:30
口内ケア用のスポンジを貰って口の周りを湿らす
【3/1補足】
入室前に看護師さんから、16:00に担当医から現状の説明あり。呼吸間隔が長くなっている事、脈が弱くなっている事を告げられる。今夜の付き添い(泊まり)を提案されて同意する。
入室後母の様子は特別変わった感じは無かったのだが、確かに呼吸のリズムが多少変わっているような気はした。ただ尿が全く出ていないのを見つけて、いよいよ…と言われた理由が理解できた。
午後の清拭の際に、前々日に看護師さんに言われて購入した前開きの肌着を着用してくれた。急ぎ取り寄せたものだし、間違ってMサイズを購入してしまったが(母の身体は小さくSサイズ)、何とか着用する機会があって本当に良かった。もっと早く取り寄せていたら、毎日の清拭に不自由が無かったのかもしれない。ただ正直なところこの肌着も間に合わないかもしれないと思っていたから、何とか間に合って良かったという思いもある。
(ただこれが生前の母の為に買った最後のプレゼントとなった)
2回目の付き添いとなるが前回とは明らかに状況が違う。確かに呼吸間隔が長くなる時もあったが、元気に(?)眠っている姿を見るとそこまでの危機感を抱くほどではないようにも思える。出来ることは脚マッサージのみで、1時間ごとに脚マッサージでうっ血を解消することに専念する。
ここ最近全く水分を取っていない事、尿が殆ど出ていない事からも水分不足なのでは?と素人ながらに考えた。特に尿が殆ど出ていない…というのは認めたくない事実でもあったから。
そこ明け方に様子を見に来た看護師さんに母に水を飲ませていいか?と聞いたが、この状態だと飲み込めずに吸引が必要になる危険性があると言われて断念。
代わりに口内ケア用のスポンジを貰って、これで口周辺(歯と歯茎)を湿らす事にする。歯茎を湿らす為にスポンジに口に入れると、僅かに噛もうとする仕草を見せる。口に何かが入って来たので、本能的な動きかもしれない。それでもどんな形でも母が反応を見せた事に少し嬉しさを感じた。
3月2日 土 S病院 入院33日目・最終日【看取り】
10:00
看護師さんによる検診
10:10
看護師さんに脈弱く、呼吸も浅く、尿も出ず…という事を伝えられ、そろそろなので見守るようにと助言される。
11:30
母の両目が開き始める
12:30
母の呼吸が明確に弱まる、脈が殆ど取れない状態に
12:50
母の呼吸停止
12:55
心電図モニターによる心停止を確認(看護師さんによる)
13:25
医師(当直医)による死亡確認
【以降は病院を出るまでの経緯】
13:50
看護師さんによって最後のお着替えをしてもらう(エンゼルケアと病室の冷却)
14:00
葬儀会社、お寺さんに連絡(事前にある程度の話を通しておいた)
14:30
お着替え完了
14:40
看護師さんからお花を頂く(枕花)
15:30
葬儀会社の車にて葬儀場へ向かう
16:30
家に立ち寄る(家に一部の荷物を置く)
16:45
葬儀場に入る
17:00
葬儀場の安置所に入る
【3/2補足 看取りの総括】
昨晩から徐々にではあるが呼吸が弱くなっている事は認識していた。それでも昨晩から全く尿が出ていない事からも、本当にいよいよその時が近づいてきたと思わざるを得ない状況に。朝10時の看護師さんの検診時もその間に退室(いつも検診や清拭の際には一応席を外すようにしていた)したが、すぐに側で見守ってあげるようにと助言された。看護師さんがわざわざそう言ってくるという事は、つまりそういう事なのだ。
昨晩からずっと母の傍に居て、母の手を握りながら延々と語りかけていた。母は喋る事や反応する事も出来ず、私が手を握っても握り返してくれることも出来なくなっていた。反応できなくても母の脳が生きている限りは必ず私の声は聞こえていると思ったから、今まであった出来事、今までの感謝、そして母と私のこれから先の旅路の事を一方的に話しかけた。
果たして私の想いが届いたかどうかは分からないが、最期を迎えるにあたって私なりの一つの見送り方は出来たのではないか…と自分では思っている。
昨晩から殆ど寝ていなかった(寝られなかった)。
母が旅立つ2時間ほど前に、手を握りながら母のベッドにもたれ掛かって不覚にも10分ほど寝てしまった。このような状況で僅かながらでも寝てしまうのはどうかと思うが、母の手を握っている事で私も安心というか心地よさを感じていたのもあったと思う。私自身は全く覚えていないが、母の手を握りながら寝るなんて幼少期以来になるのだろう。最期に母の手を握って一瞬でも眠るという貴重な機会を得た事に感謝すべきだろうか。
11時を過ぎると呼吸が明確に浅くなった。今朝までは昼飯(私の)どうしようとか?、今晩は一旦家に帰って出直して来ようか…などと考えていたが、もうそれどころではない。母の最期が近い事は明白だった。
母が旅立つ2時間ほど前になると、母の両目が少しづつ開き始めた。
もう瞼を閉じる力すら失われていたのだろうと思う。
母の顔は僅かに私の方を向いていて、最後の1時間はベッドの傍らで母の手を握りながら、ずっと母の顔(目)を見つめる状態だった。目を合わせている間はお互いに無言だったが、母と目を合わせながら何百もの会話を交わしたような気がする。私だけでなく母も私の目を見つめてくれた。この時こそ「目は口ほどに物をいう」を状況だったのだろうか。
でもいよいよ旅立ちの時を迎えようとしている母に対して、不思議と「行かないでくれ」とか「戻ってきて」とか引き止めの気持ちは無かった。私としては母上を最後までちゃんと見守るという意識と、きちんと母上を見送るという気持ちでいっぱいだったからだろうか。それにもう十分過ぎるほど戦ったと思うし、早く楽になって欲しいという気持ちもあった。
最後が近い事は容易に察知できた。母上の呼吸は更に浅くなり、身体のどこを触っても脈を取れなくなっていたから。ずっと傍にいて母の様子を見続けていたのだから、その変化(弱まり方)は看護師さんよりも分かっていると思う。
病室には私と母上だけだった。看護師さんは別室でモニターしてるから最期が近い事は分かっていたと思うが、私と母上だけの2人きりにしてくれたのだろう。
本当にいよいよ…という時に母の目を見ながら必死に「今までありがとう、育ててくれてありがとう、何もかも教えてくれてありがとう」という感謝の言葉をかけ続けた。ここ数か月で何度も母に向かって言った言葉だけど、やはり最期はこの言葉で送りたかったから。
母上の呼吸が完全に止まったあの瞬間。
そしてあの時の母上の顔(目)は一生忘れることは無い。
母上は私と目を合わせたままは旅立った。
私と母上の2人だけのあの空間とあの瞬間。
私と母上が共に歩んだ時間、共に戦ってきた道のりはこの瞬間に幕を閉じた。
母上の旅立ちを見届けた私が母にかけた言葉は「やっと楽になれたね」である。もう母は辛い身体痛みに耐える必要や、嘔気に悩んだり苦しむ事も無くなった。顧みて家の中やその他の細々とした事で頭を悩ますことも無くなった。母はこの瞬間すべての苦しみ悩みから解放され、やっと自分らしく自由になる事が出来たのだと思う。
そして同時に母が居なくなった私自身の新たな道がスタートしたのである。
【以下は私が書いた看護ノートの最後のページに母に向けての最後のメッセージを書きました。それをこの場でそのまま転載してみます】
(この看護ノートは後にお焚き上げで母の元に届けることになりました)
母上にとって新たな旅立ちが始まりました。
母上の次の旅路では絶対に幸せになって欲しいと思います。
この世では愛情に満ち溢れた心で人に幸せを与え続けた母上ですが、母上自身は殆ど幸せを与えられないまま、幸せを得られないまま終わったように見えます。次の旅路では是非とも母上自身に幸せを与えてくれる大勢の人々に出会って、この世(私のいる世界)以上にたくさんの幸せに包まれる人生を歩んでください。
母上、今まで本当ありがとう。
大好きですよ母上。もちろんこれからもずっと…。
私にはまだ母上を見送るためにいくつかの仕事があります。
それらを完璧にやり遂げて、改めて母上をちゃんと見送りたいと思います。
母上が子供の頃の私にしてくれたように、母上が見えなくなる最後の瞬間まで手を振り続けるのでよろしく。
母上を見送るという事は私にとって辛い事だけど、でも何とか前を向いて歩んでいきますね。家の中の事もほぼ完璧に引き継げたし、母上が家から居なくなった後も何の問題も起きていません。後は私に任しておいてください。
私は母上の息子としてこれ以上にない幸せを得ました。
そして息子として最期の数か月、母上と2人きりで一歩一歩と歩めた事を誇りに思います。
最後の最後で私の事を見つめてくれて本当にありがとう。
母上のいろんな想いが伝わったような気がしました。
母上は次の旅を楽しんで生きて、そして幸せになってください。
母上の次の旅路の安全、そして幸せを私は心から願ってます。
私のいる世界から毎日のように母上の幸せをお祈りしていきます。
そしていつの日か…どこかで母上とお会いしたいです。
その時は母上が旅立った後の私の生活、これから起きる様々な出来事を聞いてくれると嬉しいです。そして母上の次の旅路で得た幸せな出来事のお話しも私は聞きたいと思います。
さようなら、母上。
お元気で。
私を愛情いっぱいに育ててくれて本当にありがとう。
本当に大好きです母上!
もちろんこれからもずっと大好きですよ!
またいつか絶対に会いましょうね!
看護日記はここで終了
(最終日付と場所は 3/2 PM22:30 〇〇〇〇安置所にて)
【注意事項】
この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。