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母の旅立ち、私の見送りへの道 入院編⑥ 2/23~2/24 (初の付き添いの泊まり) 第19回/全35回

この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。

今回はS病院にて初の付き添い(泊まり)となった2日間を紹介。今まで病院では午後の数時間しか母の様子を見ていなかったが、丸一日以上母の傍に居ることになる。ただ殆ど会話も出来ずで、こちらの問いかけに僅かに頷くか首を振るかだけの意思疎通となる。脚にはうっ血の状態が顕著に見られるようになり、私としては時間があれば脚のマッサージを繰り返すだけの時間となった。


2月23日 金 S病院 入院25日目【病室泊まり・無呼吸の症状出る】

14:40 
入室
14:50
看護師さん(Mさん)から状況説明。
14時過ぎに本人が眠りたいと言って点滴を入れ始めたとの事。
16:00
ポカリスエット少量飲む
16:15
脚マッサージ
17:50
看護師さん(夜勤担当のSさん)に氷枕を入れてもらう(少し熱がある様子なので)。また看護師さんと相談の上、夜の点滴の量を増やしてよく眠れるようにする事に決める。
19:00
脚マッサージ
19:45
夜の部の点滴を再開
20:00
眠る
21:30
脚マッサージ
24:50
母の呼吸に少し変化あり。
無呼吸の症状、下顎呼吸のような動きが目立ち始める。
ただ大事には至らず。
25:45
ポカリスエット少量飲む
26:00
脚マッサージ

【2/23補足】

付き添い(泊まり)初日。病院までの道のりは冷たい雨。
ただ到着と同時の15時には雨は上がり、晴れ間まで見えるようになる。

母は私が来るから(私が来るときに起きて居たい)と言って昼前(10:30)くらいから点滴を止めていたそうだ。

しかし待ち切れずに14時過ぎに眠りたいと言って点滴を再開したとの事(看護師さんの皆見さんのお話し)。多分痛みもあったと思うし、しんどかったのだろう。私が泊まりの準備の為に少し遅れて来てしまった事を後悔している。

24:50 母の呼吸のリズムが突如変わる。無呼吸の時間が長くなり、下顎呼吸らしき動きも見せる。少し焦ったが、40分ほどでその症状は無くなり、25:30には普通の寝息に戻る
の後に水を欲するなど何時も通りに戻った事でなんとなく安心する。

一応病室内のソファーが簡易ベッドになる構造。一応ベッドにして寝れる態勢にしてみたものの、24:50の母の症状などもあって寝ていられない状態。またこの日の冷え込みも厳しく、外は1~2℃という気温で厳しい寒さ。室内の温度はそこまで冷えていないが、母上が暑がっている状況からも暖房は入れず。

S病院の病室の窓から大阪の夜景を始めて見る。母の大好きな我が家から見る大阪の夜景も立派だが、S病院の病室から見る夜景もまた一段と綺麗。
この日は冷え込みもあって夜景も良く見えるのだと思う。ただ母上は入院当初の頃に自身は動けないながらも、この夜景を見ることは出来たのだろうか?

母の隣で夜を明かすのは家に居た時の1月29日の夜以来で約1か月ぶり。母上がよく眠りだした深夜3時以降は、眠っていても母の耳には届いていると思って散々語り掛けるように独り言を言った。過去の旅行の思い出、家の中の事、将来の事。不安も愚痴も散々言った。もう最期が近いという意識もあるから、ベラベラと私独りで散々に喋りまくった。これらの言葉は果たして母の耳には届いたのだろうか…。

この日、初めて病室で寝ている母の姿を写真に撮った。
この日に至るまでの出来事を忘れない為に…。

2月24日 土 S病院 入院26日目(前日から泊まり)

5:00
脚の痛み訴える(看護師さんによって痛み止めの量を調整する?)
6:00
いろはす(桃)飲ませる
8:00
再度脚の痛み訴える。脚マッサージ
9:30
担当医(武田先生)とお話し。
点滴の投入量は現状維持とする事の確認
9:45
看護師さんによる検診、清拭
10:10
痛み止め切れる(アラーム鳴り響く)。
看護師さんに連絡して痛み止めを補充して再開
10:15
眠る…
11:00
脚マッサージ
12:00
いろはず(桃)飲む、氷食す
13:00~15:00
1時間おきに脚マッサージ
16:00
いろはず(桃)飲む
16:20
退出

【2/24 補足】

朝から足の痛みを訴える。足のむくみが目立ち、足の指先、かかと部分のうっ血も同様に目立つ。昨晩から脚のマッサージを入念に行うがどこまで効果があるのか…。ただマッサージをした直後はうっ血は解消されているっぽいので、やる価値はあると判断。

昨晩にヒヤリとする出来事はあったが、その後はいつもの状態に戻る印象。
寝息も通常だし、良く寝れている印象。一時の緊張した時と比較すると、こうやって寝息を立てて寝ている事がそれだけ幸せな事かと思う。ただ会話は殆ど無く、こちらの問いかけに僅かに頷く程度。しかし意識そのものはあるという判断が出来る。

午後は殆ど脚のマッサージだけをする状態で、当然会話もままならず。
それでも退出前に母上に声をかけた時に、ハッキリと頷いてくれた。
これだけでも全然嬉しかった。

深夜の無呼のリズムが変わった(無呼吸)には焦ったが、その後は比較的いつもの状態が続いたと思う。私の撮っては水を飲ませる事と脚のマッサージしかすることは無いのだが、それでも終始母の傍に居て見守ることが出来た事は良かった。一時はもう危ないのじゃないかと思ったりもしたが、もうちょっとは大丈夫そうな雰囲気。

【2/23~2/24 まとめ】

付き添い(病院内での泊り)は初経験。不安な事は多かったが、担当看護師さん(Sさん)と担当医師(Tさん)のフォローがあるから…という状況は非常にありがたかった。特に夜勤となった担当看護師のSさんには大丈夫そうなときはいちいち見廻りに来ないから…と結構いろいろと気を使ってもらった。それでも無呼吸の症状が出た時にはナースステーションでモニターしていたせいか、飛んできてくれるなどフォローして頂いた事に感謝している。

同じく翌日の昼勤となった担当医師(Tさん)にも色々とお声がけをして頂いた。担当医師も担当看護師も母(患者)だけでなく、私(付き添いの家族)にまで気を掛けるなどの対応をしなくてはならないのはさぞ大変だったと思う。

この泊りの時に初めて病院内での母の姿を写真に撮った。今思えば車いすに乗って展望台に行った時とかまだ元気な姿、見る事ができる写真を撮っておくべきだったとも後悔している。なにせこの時期の母の姿はもう家に居た時や、入院当初の姿とはかけ離れた姿になっていた。何もこんな末期も末期の状況になって写真を撮る事を思いつくなんて…とも思ったが、今撮っておかないともう機会そのものが無いとも思えたから。実際この時から母が旅立つ日まで写真を撮り続けたが、この時の写真がまだ見るに耐える状況の写真だった。この日以降の写真はもう…。

深夜の無呼吸のような症状は焦ったが、その後は特別な変化は見られずだった。尿の出が悪くて心配したが、まだ僅かではあるが出ていたと思う(これは母の最期の日に尿が全く出なかったので分かる事だが)。会話はほぼ出来ない状態だが、辛うじて意思疎通は出来ている状況。入院当初に比べると私が出来る事は限られてきたが、それでも僅かな意思疎通と母のお世話を出来ているという状況を喜ぶべきだったのだろうか。

【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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