相撲の社会的ニーズ③
前回の更新から1ヶ月以上経過してしまいました。気を取り直して投稿を再開します。引き続き相撲の社会的ニーズについてです。
今回は、私が考える相撲の社会的ニーズの中で、
③儀式
について書いていきます。
1.儀式としての相撲
相撲節会を代表例として、相撲は全国各地で「儀式」として執り行われてきました。神社の祭礼といった特別な日に相撲が執り行われたということは、相撲が特別な日に行う価値のあるものとして認識されていたことを表しています。さらに、宮中行事として相撲が執り行われたということは、相撲が朝廷においても重要な芸能であったと言えるでしょう。
なぜ、相撲に日本人は大きな価値を見出してきたのか??
この命題を考えるために、柳田国男著の『日本のまつり』の一節を引用します。
私などの深く感じているのは、よその国々の他の宗教は知らず、日本のまつりにおいて神々をおもてなし申す方式だけは、人が最上級の賓客を迎えた場合と、完全によく似ていることである。〜(中略)〜神のお食事の時刻は座上にも庭上にも、常の日に何倍するほどの火を焚く。〜(中略)〜この薪の日の燃え盛るのをながめながら酒宴をするのは、昔の人たちの大きな歓びであったので、神々もまたこれを賞(め)でたまうべしと、単純に推測したらしいのである。
ここから分かるのは、
・日本の祭は「神を喜ばせる」ことを目的とした。
・人間と同じように神が喜ぶ、と考えていた。
ということです。神道を中心とした日本の在来宗教は、キリスト教やイスラム教や仏教と比べて、「神」の存在がかなり人間に近い存在であると考えらていたようです。こうした考え方に基づき、
人間が見たいもの、楽しめるもの≒神が見たいもの、楽しめるもの
という考え方が自然と起こり、日本社会の中に定着していったのだと思います。
2.相撲を儀式として行う理由
では、 前項の考え方を踏まえた上で儀式として相撲を行う理由を考えていきます。私は以下の3点のが主な理由だと考えています。
1.誰でもできるシンプルなルール
相撲の形式は時代毎に若干異なりますが、基本的には"足の裏以外の部 分が先に地面についた方が負け"です。このシンプルさ故に誰でも直ぐにやることができます。古代〜中世は現代に比べ遥かに識字率が低い時代ですが、長きに渡って相撲が日本で行われてきたのはこのシンプルなルールに大きく起因していると言えるでしょう。
2.誰でも分かる、分かりやすさ
ルールがシンプルということは、やる側だけでなく見る側も勝敗が分かりやすい、ということができます。現代の相撲もルールを深く知らなくとも多くの人が勝敗が分かります。この「見る側」にも分かりやすいというのは、儀式だけでなく大相撲がエンターテインメントとして成立するために非常に重要な条件であります。
3.健康な男子の力比べという希少性
産業革命以前で、電気や蒸気の力を使えない古代〜中世では力の強さが生きる上で現代よりはるかに重要でありました。また、衣食住が保障されていない、多くの人々が飢餓に飢える時代には、『健康な男子の力比べ』ということ自体に希少価値があったと言えますし、それ故に見る側のニーズも大きかったと言えるでしょう。
4. 力比べの迫力
シンプルなルール故になりますが、二人の競技者の力比べの迫力がダイレクトに観衆に伝わります。両者の筋肉、腕に浮き出る血管、力が拮抗して小刻みに震える両者の身体、紅潮する顔、様々な要素が観衆に伝わり、その場のボルテージが上昇していくのは今も昔も同じだったと思います。
3.まとめ
今回は儀式としての相撲に対する社会的ニーズについて論じてきました。
まとめると、
人間が喜ぶもの≒神が喜ぶものと言う考え方を起点として、やる側も見る側も容易に理解可能なシンプルなルールの相撲が、そのシンプルさ故に観衆に力比べの迫力や力強さがダイレクトに伝わることで、その場にいる多くの人々が楽しむことが可能であった故に、儀式としての相撲に対する社会的ニーズが存在し続けた。
と言えるのではないでしょうか。
次回はエンターテイメントとしての相撲に対する社会的ニーズについて書いていきます。
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