大学で好きな科目ばかり取って、卒業要件満たせず留年する人は一定数いる。因みに私は教養科目が好きでなかったから、苦労した。大抵教養は朝早く始まるものが多く、朝早いのがキツい自分にとって気の進むものじゃなかった。期末試験は今でも覚えてるが、細かい場合分けをし、すぐ答案が埋まった。
牛丼屋さんで食後御馳走様というのは所得低い人のやる事だと投稿されて、ひろゆきさんとYOSHIKIさんが異論を挟んだみたい。元々の投稿者も大した所得じゃないんだろうが、ひろゆきさんとYOSHIKIさんが出てくる辺り社会的影響を加味した上での判断だったろうと。人への有難みは軽視される
国会議員の資質について、色んな議論が起こるだろうが、少なくともお勉強が出来るっていうのは、経済の源泉がどこからくるものか枠組みを理解しないとダメだと思う。憲法論を押えて、テキスト通りの政策をしようとしたって枠に収まらないのが社会というものでないかと。参院憲法審査会の大義を捨てるな
小西洋之議員もスクラムを組んでくれる人が党内に居ないのか?高市経済安保相を叩くときもついてきたのは杉尾議員、福島議員くらいだった。大学で勉学をして、法学を駆使して相手を論破するのを至高と捉えてるが、政治家の仕事は論点について多数派を掲げるのでなく、事実に基づいて議論を創る事だ。
包摂、とか統合とか如何にも日本的概念を逆に不自由に思うのが、コロナ禍の緊急事態宣言とかマスク着用義務とかである。前習えをお題目に説教垂れる人がいても、個人の自由を密かに愛する人はそんなの関係ない。民意という化け物を持て余す昨今の社会は、分離分解と包摂の間を行ったり来たりするだろね
政治家として、どの政治問題も”どちらでもない”と応えるのは信用出来ない。民意を尊重しつつ、国民の代表として批判を覚悟で答えを出す覚悟がない限り、政権を担う事はとても出来ないと思ってる。いくら言葉で取り繕っても、議題には結論を出そうぜ。それが決断する、という事じゃないのかな・。
私は勉強の意義が正直大学三年まで判らなかった。面白くなかったけど、我慢して続けた。高校三年間、勉強が何に役立つかが見えてこなかったのだ。だから、今苦しいと思って、机にかじりついてる受験生もきっと目の前の曇りが晴れるときが来ると予言する。ただ入学してから好きな科目ばかりやると留年だ