永禄11年(1568)9月26日は織田信長が足利義昭を奉じて上洛した日。義昭将軍就任後、次第に関係は悪化し4年後の同じく9月に義昭を責める異見17ヶ条が出された。重臣佐久間信盛を追放した時の19ヶ条の折檻状といい信長はネチネチと人を責めますね。周りの人間にそれがどう映ったのやら。
永禄13年(1570)1月23日は信長が将軍足利義昭への殿中御掟に5か条を追加した日。前年の16か条よりも将軍の政治活動を制限。諸大名への御内書に信長の副状必須。過去の義昭の命令は破棄。将軍に領地は無いため褒美は信長の領地から。信長の一存で誰でも処罰可。将軍は油断なく朝廷へ奉公。
永禄12年(1569)1月14日は信長が殿中御掟9か条を定めて足利義昭に認めさせた日。16日に7か条、翌年5か条が追加され合計21か条となる。諸大名への書状は信長へ報告。信長がやることは将軍の承認不要など将軍権力を制限する掟。前年上洛した二人は幕府運営で考えの相違が拡大していく。