学部に入ると、1、2年の間はひたすら基礎を学び三年から研究室に入るのが一般的だろう。が、である。その基礎を学ぶというのが、教科書を丸暗記するという苦行と思い込む節がたまに見える。教科書を1ページ目から熟読し、必要のない筋肉をつけて重くなる。エコとは、ストレートな思考を学ぶ事だ。
外国に何故人は学びに行かなくてはならないか?比較する事で気づく自国の欠点や長所に理解が深まるのと同時に、国際的な関係を気づくことで、国家間の民間ではあるものの、距離が縮まるという効能があるのだと思っている。国家公務員の言葉で、「川を上り、海を渡れ」というものがあるらしい。学ぼう。
合衆国の人種差別はかなりキツイ。英語が判らない人も体感するくらいのヘイトがある。カナダやオーストラリアも、あるにはあるがそれでも多くのアジア系の人達もいるから、ある程度緩和されている方か。アジア系はコリアンかチャイニーズがメイン層なのか、よくこの二つと問われる事が多い。
日本のインフレが果たして、雇用に直結するのか。物価上昇はしてるものの、賃金上乗せは封じられてる企業が多いし、何より雇用が今以上に議論の的に上っていない。国会は小西文書問題で席巻し、肝心の雇用対策はなおざりにされるかもしれない。僕らは仕事という生きがいをもって社会を謳歌するもの。
権威のある人しか、意見を述べても注目されない。だから権威を求めるんだ、という見識を唱えた人がいる。自分に当てはめると、確かに自分も権威のない存在で、noteで問題提起したって、議論の的にはなれない。では、権威とは何かを考える際、日々の積み重ねからでしか、意見の厚みは生まれない。
学部の頃、よく考えたのが何故他人は有益な情報収集が物凄く上手いのだろうという事だった。友達のリポートを拝見しても、明らかに情報収集・統合・整理が自分より優れてる場合が多かった。勉強の才とは平等には配られないんだなと強く思った。
シリコンバレー銀行の破綻は、如何にも債券売買メインではないか、貸出しないでという高橋洋一さんのご意見。それって本業やらんで儲けようとしていたんではないかね。
教育で生徒に何を1番やっちゃ駄目か?自尊心を喪失させる事だと思う。自分にはこれがある、ここだけは誰にも負けないという領分への尊重。そこは凄く自戒する先生は多かった。子ども達が逞しく生きぬく力は自信から生み出されてくるのだから。
考えてる事を表現するって、世間体とか常識に必ず照らし合わされる。ヒット作を見て、あれ俺も考えてたのにって思う人って大勢いるんだけど、そもそもその表現できる立場に就く事が大変難しい。ヒットしても思わぬ方向から叩かれる事もあるし。だから私みたいな消費者は座して観るのが一番いい。
朝っぱらから何作ろうか考えたとき、ふと明太子が昨日の残っているので、茶漬けにすることにする、大人しく。手の込んだものは夜に極力回す。ご飯炊いて、お茶沸かして食べるだけだし、いいじゃないか。
問いに応えるとは最初の一回目では分かりにくい。それは、難解な文章を一読して理解出来ない事に等しい。一回目取りあえず考えて、全く理解出来なかったときが勝負だ。解説読んで更に判らなかったら、先生に訊くネタが出来たと思えば良い。過去問を解き続けて、訊くネタを五、六個程ストックしておこう
これから一年間勉強して、学力が本当に上がるのか不安になる人は過去問をやればいいと思う。基礎力をつけてから何て悠長な事言わずに。過去問は訊きたい事を問いにしている。実は基礎・応用に分ける問いのあり方こそ、一番の弊害で、まずは応用をやらねばならないのが現実だ。段階的発展は空想。