利他主義か利己主義か。およそ強制システムである独裁を考える時、利他主義を基準にして物事を考えてしまうことが最終的に独裁に直結するというのは、真実である。だが現実には、例え利己的に行為したとしても、結果として他人の利益になっているのだ。これをカタラクティクスという。 #新しき独裁
利他主義を基準にして物事を考えると、独裁に至ると書いた。独裁は多数が少数に対して行なう強制による自由の制限である。多数は少数に対して、常に父性主義による強制を行ない、少数の意見は斥けられる。これらは習慣や伝統と名を変えて、常に個人の自由を妨げている。 #新しき独裁
旧き独裁から逃れようとして、新しき独裁に絡め取られるということにならないようにしたい。 #新しき独裁
法による支配の目的は、つまるところ、叛逆する自由を抑圧することにある。 #新しき独裁
「抑圧の再生産」論は、再生産って言葉を使ったせいで、マルクスのかほりがほのかにしますが、マルクスさんは全く関係はありません。念のため。 #新しき独裁
抑圧は時間が経つにつれて薄らぐのではなく、再生産されている。 #新しき独裁
民主主義の最大の欠陥は、多数決の原理である。これがあるために多数の意志は常に少数の意志を抑圧することになる。政治的決定というもの少数の意志を抑圧しなければ為し得ないものであり、故に少数者は多数派になろうと踠き苦しむ。 #新しき独裁
従来の独裁の研究では、圧制者は個人または少数であった、とされている。ところが今や、圧制者は多数となった。多数の無関心…社会という名の多数の人間の無関心が力となって、少数の個の自由を抑圧する、あるいはもっと直裁的な言葉を使えば、攻撃するようになったのである。 #新しき独裁
独裁論ってタイトルでもいいのだが、新しき独裁というタイトルも捨てがたい。何故なら、「多数による少数に対する自発的または強制的な隷従を基礎とする支配」という新しき独裁の概念を広めるには、独裁論だとインパクトが薄いような気がするからである。 #新しき独裁
近代以前の人間は、ラ・ボエシが言うように「本性に従って自由を好み」、「理性的に生きて」いた。だからこそ、彼の小論は極めて鋭い理性の剣の燦きによって隷従の本質を暴き切ったと言える。だが、現在の人間はどうだろうか? その疑問を解決しなくては論は進まない。 #新しき独裁
愛国者は多数を代表しているという自負があるからこそ、少数をそうでない者と見做して攻撃することができる。しかし、愛国者の脆弱性は、多数を代表しているという自負が何の根拠もない空虚なものでしかないという事実にある。愛国者は絶えず攻撃に脅えている。 #新しき独裁
旧き独裁の代表的な国である中国も、新しき独裁の代表的な国である日本も、国民文化が衰退して人間性が欠如したまるで獣のような人間が跳梁跋扈している点では同じである。最初は少数による多数に対する支配だったのが、自発的隷従によって、多数による少数に対する支配に変化する。 #新しき独裁
僕はシモーヌ・ヴェイユよりも長く生きてしまった。しかも無駄に長く。 #新しき独裁
多が少を圧するという、自然のありようと同じ状況が社会や政治において現出されたということを以ってして、人間の知性の停止や人類文化の衰退、人間の野性の発露を意味していると思うのは早計だろうか。考えることをやめた人間はただの動物と同じである。 #新しき独裁
ファシズムによる独裁、権威主義体制による独裁、プロレタリア独裁、新しき独裁も結局、民が自発的ないし強制的に隷従しているという前提のもとに成立している。 #新しき独裁
プロレタリアートによる独裁(プロレタリア独裁)も多数派による少数派に対する強制による自由の制限である。多数派の攻撃により少数派が壊滅させられる様は、ロシア内戦を見るとよく分かる。 #新しき独裁
隷従。自発と強制…自発的に隷従「する」場合と、強制的に隷従「させられる」場合。各々の対処は全く異なる。 #新しき独裁
結果的に弱き人々は強くならなくてはならない。アナキズム的な思考をしなくては、権威に対して隷従屈従を強いられ、一生涯、弱さを押し付けられる。 #新しき独裁
民主主義がなくても、政府や官僚機構がなくても、人間は生きていけるだろう。ただ、個の自由と自由経済なくして人間は生きていくことはできない。僕は人間が人間であるが故に、誇りを持って、今ある権威を拒絶し、「わたしはわたし」と叫ぶ。 #新しき独裁
武力または警察力による弾圧は強制の終局的または破滅的段階である。弾圧がないから、独裁ではない、自由だと断定することはできない。弾圧がないということは、隷従していることを意味し、独裁が進行していると考えなくてはならない。 #新しき独裁
よい政治家は、自分が無知であると知っていて、なおかつ他人の助言や諫言を受けることを厭わない。私は何人かこういう人を知っている。そういう人が経営者として自由経済の一員になれば、政治家でいるよりも、もっと世の中に貢献できるだろう。それを惜しむ。 #新しき独裁
政治家は基本的に経済学の知識は持っていない。彼らが単に自由と言う時、それは自由経済を意味しない。実体がない言葉だと思った方がいい。 #新しき独裁
民主主義は圧制ではないというのは、一種の幻想である。狭義の圧制は多数の、民主主義は大多数の隷従を必要とする。隷従なくして政治は成立し得ない。 #新しき独裁
民主主義は常に少数派の隷従を必要とする。 #新しき独裁
全ての人の個の自由を確保することによってのみ、新しき独裁の現出を阻止できる。しかし、現状の民主主義体制ではこれは不可能である。故に民主主義体制を継続するという前提に立てば、我々は独裁(旧き独裁と新しき独裁)と上手く付き合っていかなくてはならない、ということになる。 #新しき独裁
民主主義の下で少数派の個の自由を保持する方法はあるだろうか。ないと言ってよい。少数派は多数派によって絶えず抑圧されている(法の支配の名の下で)。法の支配とは、多数派による支配に正統性を与える手段にしか過ぎない。新しき独裁は常に民主主義から生ずる。 #新しき独裁
民主主義は、多様性を認めているかと言われれば、決してそうではない。多数派は多数派になった時点で、それを構成しているはずの個を顧みなくなり、多数派という一つの(政治的な)意志になる。この一つの巨大な意志が、少数派である個の自由を(法に基づく)強制によって抑圧する。 #新しき独裁
なぜ民主主義の下で少数派の意見は多数派に斥退されるのか。これを考える必要がある。多数派は少数派を支配することを新しき独裁と定義したが、多数派の支配がなぜ、独裁であると言えるのか。→続く #新しき独裁
利己主義が考えの基準にあっても、独裁に至る。利己主義なら、必然的に政治闘争が起き、少数による多数に対する強制による自由の制限に至る。 #新しき独裁
サンディカリズムは、議論の前提からして間違えている。サンディカリストは、経済は資本家や政府によって運営されているという。しかし、実際には消費者の人間行為により経済は成り立っている。このことを無視しているため、サンディカリズムは社会主義の派生であると見做してよい。 #新しき独裁
独裁と知識人の関係は非常に興味深い。知識人は大抵、権威主義者であるから、権威により人に強制する独裁との親和性は高いと言える。知識人が権威主義から抜け出すことはできないが、仮に抜け出しているなら、その人はすでに知識人ではなく、賢人という。 #新しき独裁
例を挙げる。アナキズムは権威を否定している(権威から自由である)が、それなのに、多くのアナキストは権威という名の服を着て、大手を振って歩いている。人間は権威を纏わなければ他人を従わせることはできないという証左である。ここに独裁の萌芽があると言える。 #新しき独裁
独裁(旧き独裁、新しき独裁に関わらず)とは、少数が多数に対して行なう強制による自由の制限である。一方、民主とは、多数が少数に対して行なう強制による自由の制限である。よって、独裁も民主も強制による自由の制限であることには変わりがない。 #新しき独裁
新しき独裁の最大の特徴は、個人でもなく、党などの政治機構ではなく、官僚機構が政治をしているという部分にある。 #新しき独裁
政治家には給料は必要ない。 事実、古代ローマの政務官は無給であった。 #新しき独裁
古代ローマの独裁制と他の独裁制との違いは、「官僚」にある。前者は職業官僚を必要としなかったが、後者は官僚機構を必要とした。 #新しき独裁
自由と民主主義は必ずしも両立しない。 民主主義から強制が生じる場合が多々ある。 #新しき独裁