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介護施設が街に拓くということ〜介護施設が街にある意味と、街に介護施設がある意味〜

介護施設とまちづくりと聞くと、相交わることがなさそうに感じる人もいるだろう。

しかし、最近は介護施設も街を意識したプロジェクトを行うところも増えてきたと思う。

介護施設の利用者である高齢者のより良い暮らしを考えると、街と接点を持つという行為は非常に重要となってくるからだ。
また、街にとっても介護施設が街に拓けた状態は意味を持つものだと考えている。

暮らりも例外ではなく、街との接点を持つ取り組みを行なっていく予定である。

今回は、介護施設がどのような思いで、街との接点を持つといいのかを少しばかり自論を述べてみようと思う。

介護施設が街との接点を持つといいのはなぜか

  • 利用者からの視点
    介護施設に通って来られる利用者さんは、認知機能や身体機能の低下によりできないことが増えていく。家族などの周りの方々からもできないことを指摘されて、自己肯定感や自己効力感が下がっている方も多くいる。

    解決策は単純で、「できる(自然とできている)」ことに着目し、他者貢献していくことである。もしくは、そこに居ても良いというメッセージを感じてもらうことだろうと思う。そのキーワードが「役割」だ。

現在の介護施設はコロナ禍ということもあり、基本的には介護施設に居る他の利用者か介護施設の職員としか関わることをしていない。
介護施設が街に拓けるようになると、もっと多様な人との関わりが増えるだろう。関わる人が増えるということは、話し相手になったり、挨拶をしたり、物品の贈与が行われたり、何かしらの作業(コミュニケーション)が増えるということでもある。

そして、作業を通じて役割を担う機会を創出することができて、暮らしを豊かなものにしていくのではないかと考えている。

  • 街からの視点
    介護施設の利用者だけではく、街にとって介護施設が拓かれているということがどのような意味を持つのだろうか。

    地域住民が、気軽に介護の相談ができるようになるのは良いことだと思っている。介護の状態がひどくなってからの相談だと、職場との調整や親戚との協力関係の構築等、一度に大きな生活様式の変更を余儀なくされる。早めの相談だと、今の生活を維持した状態で介護がある暮らしへと、緩やかに移行できる確率が高い。

    また、現状の介護施設では、街の人は、利用者がどのような暮らしをされているのかはあまり感じることはできない。プライバシーの問題はもちろんあるが、介護のある暮らしを事前にイメージできていることはとても重要だと思う。

    そして、介護について「知る」機会があることで、メディアや周りの人とからのネガティブなイメージではなく、自身の目や耳で事実を感じ取れるようになる。

    逆にいうと「知らない」状況は、暮らしと介護の分断を生むだろう。「私にとって介護は関係ないもの」とせず、いつか来る私のためにも、自分の「知らない存在(介護)」を気にかけることは大切なのだろう。

    社会福祉法人愛川舜寿会さんの言葉を借りるならば、「社会をやさしくする」ということであり、街の文化にまで影響を及ぼすのだろう。

どのようにして、介護施設と街が接点を持てばよいのか


ここまで、介護施設の利用者と街の視点から、介護施設が街に拓くことに意味があることをお伝えした。

では、具体的にどのようにして、介護施設と街が接点を持てば良いのだろうか。介護施設の利用者からの視点であればすぐにでも街と接点を持つ意味はある。

例えば、介護施設では昼食を作る。その食材などを「知らない」ところからではなく、街にある「知った」お店で買うことはできる。そうすると関わりができるだろう。そしてその買い物を利用者と一緒にすると、お店の人は利用者に「買ってくれてありがとう」と言う。私たち職員も利用者に「手伝ってくれてありがとう」と言うだろう。利用者に何かしらの「役割」 ができる瞬間ではなかろうか。

しかし、街からの視点で考えてみるとどうだろうか。介護施設と関わる意味はあるかもしれないが、どの理由も「長期的」過ぎて「今」大切なことではないのである。つまり、関わりしろがないのである。その関わりしろをデザインするためには、その街ならでは課題や欲している思いを観察して解釈することが大切である。暮らりができるエリアは高齢化率が50%を超えている。

街を観察していると、地域の高齢の方は数分先の自販機までジュースを買いに行っている人がいた。それは何を意味するのだろうか。

・嗜好品的であったらいいなレベルのものを買う場所がない。
・外を出歩くことで、人とのコミュニケーションを潜在的に求めている。

なのかなと解釈している(他にご意見あればぜひ伺いたいです)。

私は八百屋的機能が暮らりにあるといいのではないかと考えている。

定期的に同じ時間に関われる場を用意し、野菜のような日用品(果物のような嗜好品も入れながら)の購買作業を通じてコミュニケーションを生むのが良いのではないかと思う。日用品であれば、毎日きてもいいし来なくても良い。なんなら店番をしてもらっても良い。近隣スーパーの立地条件を見ても徒歩圏内に買える場があるというのは、高齢化率が高い街のインフラ機能としても有効だと感じる。

ただ、これも現状の仮説に過ぎない。八百屋的機能を通してコミュニケーションをとっていくことで更なるニーズの発掘にも繋がると思う。固定化させるのではなく関わりしろのデザイン(機能)は常々アップデートさせていきたいと思う。

介護施設が街に拓くということ


少子高齢化、人口減少社会の突入し、介護施設が社会的に持つ役割は増えてきていると思う。一方、商店街をはじめ、さまざまなビジネスは撤退していき空き店舗、空き家が増えていっていることは明白である。人口減少社会において、飲食店が飲食、本屋が本、雑貨屋が雑貨のように単施設単機能の運営をしていては持続できないのだと思う。

介護施設は、まだまだ需要はあるため持続的な運営はしやすい方だと思う。ただ、街の機能がなくなっていっている中、介護施設を介護だけ行う、単施設単機能な場にするのはとても勿体ないことではなかろうか。

食、本、雑貨のような多機能空間にして、街の人たちが関わりたい思える小さいモチベーションを合算させていく必要があると思う。

このような、街に必要とされる、小さな仕掛けをたくさんすることで、コモンスペース(身近な人たちが気軽に足を運べる拓かれた空間)となるのではなかろうか。

そして、このコモンスペースこそが、暮らしと介護の境界線を曖昧にし、暮らしの中に介護が自然と入ってくるだろう。

きっと、それが、小さい地域包括ケアシステムなのだろうと僕は思う。


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