七本足の蛸
こんな話を聞いた。
「蛸の足は外敵に襲われた際に切れても再生するが、ストレスから自分で足を食べてしまった場合は二度と再生しない」
生物の細かな生態はよくは知らないし、この時に蛸の体でなにが起きているのかもわからない。そもそも本当かどうかもよくわからないのだが、このことはなんだか蛸が自分の足を食べたことを自覚しているから起こるような気がする。
「自覚」ということについてさらに言及するならば、それは「自分のせいで足がなくなった」ということについての自覚である。
外敵に襲われて足が切れたという場合は、つまり相手が自分を襲ってきたことに対する不可抗力によるものだという認識のもとの「相手のせいで足がなくなった」と考えることができる。一方で自分で食べてしまった場合は、まぎれもなくストレスによって自分が食べてしまったせいで足がなくなったのだから「自分のせい」という自責に考えが至る。
便宜上、前者を争いなどによる外的要因、後者をストレスなどによる内的要因としよう。
外的要因の場合は「相手のせい」言い換えれば「自分は悪くない」のだから、根本的に「自分自身」を変えていく必要はない。問題を解決するためには相手にこれまでにない何らかの方法で対抗していくか、問題が発生してもそれ以前の状態を維持していくという策が考えられる。その対抗策として蛸の場合は足が再生するのだとすれば、なんだか変に納得してしまう。
得てして、「相手のせい」するということは、問題が自分にあるわけではないので、対策も単純で構わないし、そこに対して前向きになりやすい。責任がないと思えばなんだか気も楽になるだろう。
しかし内的要因の場合は勝手が違う。
例えば、長時間どこかに閉じ込められたなど、そもそもの発端は外的要因であったとしても、足をなくしたことについての直接的な原因は、ストレスによって食べてしまったという内的要因である。
思わず食べてしまった、という自分自身の責任によって引き起こされた問題を防ぐために、今後の対策を構築することも含めた、劇的な変化の必要に迫られた大きな事実として、七本足のその姿をその実証として残しているような気がする。
内的要因によって足が一本なくなるという問題を解決するために、ではどのようにすれば一番良いのか。
ストレスに負けない精神を鍛えるのか、あるいは内的要因を持ち込むおそれのある外的要因を徹底的に排除するのか。
そのために、なにが必要なのか、屈強な精神のための鍛練は常にストレスと隣り合わせであり、また外的要因の徹底的な排除など、生きている限り不可能だろう。では他になにか、この内的要因を取り除く術はないのかと思案することにもまたストレスが発生している。そして気が付くと、また足が一本なくなっている。
そんな堂々巡りを繰り返した先に残っているのは、足をなくした蛸の姿である。堂々巡りを通して生きていくこの蛸にとって、果たして足は八本でたりるのだろうか。足は残っているのだろうか。
一番の問題解決は、七本足の状態であることを忘れて生きていくことなのかもしれない。
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