究極のものづくり【「フィン・ユールとデンマークの椅子」感想】
「フィン・ユールとデンマークの椅子」に行ってきた
ひとつの椅子を見ただけで、その椅子が置かれた空間がぱーっと頭に広がる経験をしたことがありますか?椅子を見るだけで、家族が仲良さそうに話している映像が頭の中で再生されたり、イケてる企業に訪問した営業マンになった気分がしたり。
私はそんな経験をしたことがありませんでした。「フィンユールとデンマークの椅子」の展示に出会うまでは。
ものづくりの本質
極論すれば、椅子はただ座るためだけの日用品です。なのになぜ私はここまで想像を掻き立てられてしまったのでしょう。理由は、目にした椅子が使う人がどうなってほしいかくを想像を絶するほど考え抜かれていたからです。椅子という道具ではなく、道具が作り出す物語を感じさせる。今回の展示は、そんな領域まで考え抜かれたものでした。
「使う人がどうなってほしいか」を考える上では「ジョブ理論」が連想されます。ジョブ理論は、お客様がなぜその製品を使うかを理解し、製品が解決できる仕事(ジョブ)を提示することで、ものを売ることを目指す考え方です。
このジョブ理論に当てはめて考えると、展示されていた椅子はただ座るためではなく、「家族団らんを実現する」ものや、「イケてる企業を演出する」ものであったのでしょう。
また、展示の中で「リデザイン」の手法が使われているということも興味深い内容でした。リデザインとは、既存の成功しているプロダクトを分析し、その要素をデザインし直して、自分のオリジナルとして取り組む手法のことを指します。
既存の製品の課題解決方法を知ることで、自分だからこそできる課題解決の方法を見つけ出す。そんな手法も取り入れられているからこそ、独自の価値提供ができるのです。
多くの類似品が出回っている「椅子」。そんな椅子だからこそ、少しの思想や人間の見方の違いが、大きな差を生み出します。新しい製品がどんどん生まれ、既存の製品はすぐにありふれてしまうものになってしまう現代だからこそ、お客様のことを突き詰めて考え、既存のものを分析し、自分自身のやり方で価値提供をすることが、生き残るための方法になるのです。
椅子と刀の類似性
「フィン・ユールと椅子」で展示されていた椅子は、まさに「座る」ことを極めたものでした。座ることを極めることで空間を創り出す。椅子だけれども椅子を超えた何かを感じさせる、そんなものでした。
私は同じような感覚を別のものからも感じたことがあります。それが「刀」です。私は居合道という武道の経験があり、そこで扱われる刀と、今回目にした椅子には類似性がありました。
刀は「人を斬る」ことを極めたものです。刀ほどの長さの刃物は使い道がほとんどありません。野菜や肉を切るには長すぎます。まさに「人を斬る」目的のためだけに刀は存在します。「人を斬る」ことを極めた刀だからこそ、持った人の強さを創り出すものとして、江戸時代には武士が常に刀を携行していたのでしょう。
このように、展示で目にした椅子と刀は、一つのことを極めることで、その目的以上のことを成し遂げます。一つのことを極めることで、逆説的に別の本質的なことを創り出す。そんな作用があるように感じました。では、「本質的なこと」とは一体何だったのでしょうか。私は「美しさ」と「主客合一の作用」であるように感じました。
ひとつの目的を極めたものは美しい
展示されていた椅子も刀も、「座る」「人を斬る」目的達成のために、不必要なものは極限まで削られていました。その結果として生み出される、不純物のなさに美しさを感じます。一つの目的を極めた結果、それ以外のものを徹底的に削ぎ落とし、ひとつの目的の本質にたどり着く。その結果生み出されるものは、純粋な美しさなのでしょう。
この美しさは、人も持ち得るものではないでしょうか。世の中にはたくさんのことができる人がいます。「天は二物を与えず」と言いますが、それは嘘です。二物も三物も四物も持っている人が山ほどいます。そのような人を見ていると、正直羨ましくてしょうがない。自分のできることのなさに辟易とします。自分のできることなんて、ほとんどないじゃないかと絶望することさえあります。
しかし、だからこそ一つの目的を極めることで生み出された美しさに救いを感じるのだと思いました。もしかしたら、なにもできない自分でも、なにか一つに集中すれば、美しさを追求できるかもしれない。まだその「なにかひとつ」は見つけられていませんが、希望は捨てずにいられます。そんなことを椅子や刀から感じました。
主客合一の作用
ひとつの目的を極められたものを使うと、自分と道具の逆転現象が起こることがあります。
今回見てきた椅子の展示では、実際に座れるコーナーがありました。そこで座ってみると、自分が椅子に座っているのか、椅子が作り出した空間に自分が合わせているのかわからない感覚に囚われました。
同じように、居合道をやっているときには、刀を振っていると自分が刀を振っているというよりも、刀の軌道に自分をあわせているという感覚になることがあります。
いずれの感覚も、自分がその道具に身を預けられるという安心や気持ちの良さを感じました。この「自分と道具が一体化して、どちらが使っている側なのかがわからなくなる感覚」は、目的を極めたものでしかなし得ないものです。そんな究極のものづくりの一端を感じられたことは、自分にとってみのりの大きなものでした。