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『どうする家康』に見られるTV制作者の視聴者や若者への「知性」の侮り ~どうするテレビ~

 『どうする家康』も序盤戦が終わりつつあるが、このドラマに漂う薄らすら寒さは、「視聴者、特に若者の知性を信じていない」、その侮りが源泉となっている気がしている。

 TV離れや受信料の未納問題が進む中、NHKは視聴者を若年層に拡大したという気持ちがある。そんななか『どうする家康』では、特に若年層拡大を考えて企画されたのだと思う。ネットに取られている若者を引き留めるために、できるだけ内容をとっつきやすくし、若者ウケをよくする要素を盛り込みたい…。その気持ちはわかる。

 だがそれにしても「制作者たちによる視聴者(特に若者たち)の知性や感性の見積もり」が低すぎるのではないか、と思う。

繰り返される浅薄な描写

 それらの見積もりは以下の描写に現れ、枚挙にいとまがない。

・『待ってろ…俺の白兎』に代表される信長と家康の浅薄なBL描写のゴリ押し。←「ドヤ!こういうのが好きなんだろ!」と公式で安直に提示されたものには萌えないものである。

・於大の方に「ガオーガオー」と虎の真似をさせるなど、とにかく滑りまくっているギャグセンス。何?今の笑うところだったの?笑えると思ってるセンス、ヤバない?

・お市の方と家康の初恋描写でロマンス要素にも目くばせ(←とってつけた初恋要素のぶっこみで恋愛が描けるわけないだろ)

・「ヒロインはピンクの着物をきせておけばOK」「本を読んでる時に肩をもんでくれる側室の気遣いに女性の魅力を感じる家康」(ジェンダー観の古さについての指摘は『武将ジャパン』さんのレビューが毎回的確である1))

・「海老すくい」に至っては何がウケると思ってあんなに固執しているのか、さっぱりわからない。毎回毎回クソ寒い。

・露骨に「吾妻鏡」を読ませて前作のファンにも訴求!←そういう手段が安っぽい

・そもそも松本潤氏は「若い世代」に支持されているのか、という根本的な疑問。

 ようするに「制作者が考えるこうすればウケるだろ」の水準が、ことごとくレベルが低いか、的外れなのである。いつもの古沢良太氏の脚本の妙も本作には感じられない。


TV制作者は視聴者や若者を侮っていないか

 若者はテレビ制作者が考えるほどバカではない。「こういうのが分かりやすくて、お好きなんでしょ」と提示された「知性や感性の水準」が露骨に下げられていたら、「バカにするなよ」と鼻白むだけである。

 『どうする家康』には時代考証がおかしいとか、各武将の造詣が従前のものと比べて特に独創的ではなくむしろステレオタイプを踏襲している等、目につきやすい批判点は他にもある。だがこのドラマに薄ら寒い風が漂っている決定的な要因は、「若者に媚をうりに行って、その浅はかさを見透かされて、袖にされている上の世代のみっともなさ」からきている気がしてならない。

 テレビ局在勤の友人と話したときに『でも難しい話なんてマジ誰も求めていないんですよ。メッセージは6割くらいがわからないといけないから視聴様の想定平均偏差値は40くらい。ボケーっとコタツでTVみてるボリュームゾーンをターゲットにしないと視聴率が取れないんですよ。そして視聴率が取れないのはマジで困る』と言っていた。この話はTV局を退職後数々の名ドラマを生み出しているプロデューサーの佐野亜裕美氏が、当時の上司から「お前はとにかく、伊勢丹で物を買うような人に向けて作品をつくろうとしている」という謎の説教をされたという話の裏返しだと思う。しかし、高学歴者が集うTV制作者がのたまう「偏差値50とか40の視聴者」の知性は、あまりに低く見くびられすぎてないだろうか。繰り返すが若者はバカではない。本当に問われなくてはならないのは『若者にわかりやすく届けるならこの程度』と思っている制作者側の知性や感性の水準なのではないか。

 『鎌倉殿の13人』では、わかりやすさと同時に、視聴者側の知性や感性を信頼していると感じさせる唸る描写が随所にあった。「あえて明示はしないけど、視聴者はこの意図を気づくだろう」という信頼である。例えば、LGBTの描写において、源実朝が北条泰時に投げかける視線のつやっぽさに「あ…これは…」と感じたものだし、だからこそ大竹しのぶ演じる歩き巫女のセリフ『お前の悩みは、どんなものであっても、それはお前ひとりの悩みではない。 はるか昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。 この先も、お前と同じことで悩む者がいることを忘れるな。 お前ひとりではないんだ、決して』という言葉が、三谷幸喜氏や制作者からの番組をみているLGBT視聴者の心を揺さぶるメッセージとなったのである。それに比して『どうする家康』の「倒れそうになったところを支えられて…胸キュン」という浅薄な百合描写には論じる価値は皆無で、LGBTの視聴者を本気で応援しようという心意気も感じられない。

どうするTV

 「どうせ視聴者や若者の知性の水準なんてものは、このくらいで、こんなものがお好きなんでしょ」という制作者の侮りや、不遜な態度は、作品を通して透けて見え、視聴者の心を離すだけである。

 闇を見るときまた闇もまたお前を見つめているというが、TVが求心力を取り戻とそうと視聴者を見つめるとき、問われているのは「視聴者や若者の理解力」ではなく、「テレビ制作者側の知性や感性」なのではないか。序盤戦が終わりつつある『どうする家康』から考えさせられるのは、TV制作者の視聴者に対する態度の在り方である。

どうするNHK。どうするTV。

1)BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン):どうする家康あらすじ 
https://bushoojapan.com/category/taiga/ieyasu,

2)CREA Web:『「あなたは何者か」を問いながら作品と向き合う、脚本家渡辺あやが長澤まさみの新ドラマにかける思い 渡辺あや×佐野亜裕美インタビュー #1』
https://crea.bunshun.jp/articles/-/38738?device=smartphone&page=2


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