日記(le 21 juin 2021)

(※2021.6.23. 16:30追記)
せっかくたくさんの「スキ」をいただいたところ申し訳ないのですが、エヴァの感想部分、書き足していたら長くなってしまったので別の記事に独立させました。本当にすみません。

防人の詩を聴いて泣くような人間であること

昔やっていたブログで、当時使っていたiPod nanoの再生数上位ランキングを公開したら、かなり上の位置にさだまさし「防人の詩」があったことを後輩に笑われたことがある。実際、文弱の徒で間違っても戦争なんかには賛成しないタイプなので、かなり意外だったのだろう。しかし未だにSpotifyで聴くと涙ぐんでしまう。
この歌はやっぱり少なからぬ反感を買ったようで、フォークソング嫌いで有名なタモリが、オールナイトニッポンでこの曲を裏声で歌ってバカにしていたのをYouTubeで聴いたことがある(ちなみに、さだはオールナイトニッポンの裏番組・文化放送系「セイ!ヤング」のパーソナリティを長年つとめた)。そういえば田中康夫も『なんとなく、クリスタル』の最大の特徴であるところの「注」のなかで、さだのことを、こういうキリギリスみたいな人がいざ戦争となれば戦意高揚の歌をうたうのです、などと揶揄していたっけ。
「防人の詩」は日露戦争を題材にした映画「二百三高地」の主題歌ということもあり、さだは右翼的とみられた。やはり日露戦争を題材にしてサクラ大戦の焼き直しをしたようなエロゲ発のアニメ「らいむいろ戦奇譚」(典型的な「メカと美少女」もの)では、この歌の歌詞をパロディにしたようなキャッチフレーズが多用されていたのも思い出す。
実際にさだにはそちら(保守派、復古・伝統主義者)へ傾きかねない危うさもある。ことに3.11やパンデミックで「歌い手の無力さ(と力)」を思い知ってからはなおさらのこと。「今夜も生でさだまさし」を見ているとそういう危うさを時おり感じる。
なお、よく知られているようにこの歌の1番の歌詞「海は死にますか 山は死にますか」は実際に萬葉集の防人歌から採ったもの。Wikipediaによると原文は「鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼」、読みは「いさなとり うみやしにする やまやしにする しぬれこそ うみはしほひて やまはかれすれ」、意味は「海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです」……とのこと。
2番では仏教のいわゆる「生老病死苦」が、

生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
今の自分と

とそのまま歌いこまれている。今でもつらいときなどしょっちゅう、頭のなかで「生きる苦しみと」がリフレインする。

この歌でうたわれているのは故郷喪失への不安、恐怖、悲しみ。映画にも「美しい國日本、美しい國露西亜」と教師が黒板に書き付けるシーンがある。
しかし今や故郷喪失の危険は戦争だけではない。むろん国際紛争は各地で絶えず起きているが、地球規模の問題はそれだけにとどまらない。
たとえば気候変動。

春は死にますか 秋は死にますか
夏が去るように 冬が来るように
みんな逝くのですか

環境汚染。

海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
教えてください

原子力事故や核兵器の使用による放射性物質の拡散、立ち入り禁止区域の発生。国際紛争により帰れなくなる故郷。

わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

独裁や圧政、強権的政治、労使関係のうち圧倒的に雇用主側が有利な状況などから、社会的に立ち上がる気力を奪われ、諦めに支配され、「自発的隷従」するようになってしまった市民たち。

愛は死にますか 心は死にますか

当時から「公害」「過労死」という言葉は認知されていたはず。さだは戦争映画への楽曲提供ということで、作詞作曲の際に地球環境のことも労使関係のことも微塵も意図していなかっただろう。そこに込めようとしていたのは戦争による日本・ロシア双方の故国喪失への恐怖、人と人とが殺し合わなくてはならないことの悲しみだったとおもう。
しかし現代の視点からの読み替えは不可能だろうか。創造的誤読ということで。そんなことを考えながら、今日も僕は「わたしの大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」の一節に涙するのであった。左派としての信条と「防人の詩」に涙する心情、このふたつの「シンジョウ」に、うまく折り合いを付けることはできるのだろうか?

10年経って何も変わらず傷付いてばかりいること

原発事故とパンデミックの類似に傷付けられている。専門家たちの誰を信じればいいのか、わからないのが恐ろしい。また左派、右派のインフルエンサーたちがそれぞれの観点からツイッターで専門家たちを叩くことに心を痛める。特に左派のインフルエンサーは他の問題(政権批判など)で同意見だった人も少なくないだけにつらい。当の専門家たちは多忙でいちいちSNSを追いかけている余裕もないのだろうが、勝手に感情移入して傷付いている。襲撃などに備えるため、たとえば尾身会長は常に警護が付き、ひとりで外出することすら許されないらしい。もし本当に襲撃さるべき人がいるのだとしたら、それは知見を提供する専門家たちではなく、その知見をもとに現実の政策を決定する責任者・政府与党の政治家たちのはずなのだが……。責任の所在があいまいになり、政権の都合に応じて矢面に立たされる専門家たちが状況を動かしているように見えるのだろうか。
原発事故のときとの相似には本当に耐えがたい。あのときも誰を信じていいのかわからなかった。左派は過剰に危険を煽り、かといって右派に付く気にはなれなかった。院生のころ(2012年)左派の教員が授業そっちのけで「フクシマでは今に畸形児がたくさん産まれる。自分はフランスの科学者とも喋ってるし、フランス語でニュースも見てるからよくわかるんだ」などと発言して、それがとても嫌だった。(ちなみに3.11のとき福島にいて、まさに少なからぬ放射性物質に曝されたであろう下の妹は昨春、とても元気な男の子を産んだ。)
比較的中立的と思われた研究者、たとえば早野龍五氏なども、データ処理(それも僕の実家のある伊達市)で問題を起こしたり、今やすっかり評判を落としてしまった糸井重里と組んでいたりした(当時はまだ今ほど悪評が立ってはいなかったが)。僕自身は正直cakesの問題があってから、たまたまそれ以前に(cakesとの関係もよく知らないまま)アカウントを取得していたから使っているものの、noteを使うことにもいくばくかの罪悪感をいだいている。cakesに関しては、中高生のころラジオを通じてファンだった声優・作家のあさのますみさんの件もあって、よりいっそう複雑な感情をいだいている。
今回も、比較的信頼できると思っている岩田健太郎医師もときどきある種のフェミニズムと相容れないようなツイートを複数している()し、天皇制の問題など短歌雑誌で危うい意見を出している内田樹と組んでいるのも心配なところがある(ちなみに僕自身は天皇制を廃止して、世襲でない名誉大統領制を導入してはどうかという立場)。早野龍五と糸井重里のようなことにならないか。「8割おじさん」西浦教授も流行初期のインタビューで性的少数者に対していささか無配慮な発言をしている(その後謝罪)。

追いかけはじめたBL漫画のこと

硬い本だけでなく漫画も読めなくなってしまった。長いものを集中して読むことができなくなっている。全巻揃えてある清家雪子『月に吠えらんねえ』もまったく読めないまま。Webで読める無料のエッセイ漫画がせいぜい。『ベルリンうわの空』シリーズは単行本で買い直した。最近買ったのは連載時に文春オンラインで読んでいた『うつ病九段』のコミカライズと(原作はだいぶ前に読んだ)、プロフェッショナル庵野秀明スペシャルの影響で安野モヨコ『監督不行届』、それに正確には漫画ではないけど水野しず『きんげんだもの』。かつては少しは漫画を読むこともあって、とりわけ「日常系」が好きだった。しかし、むかし買い集めていた『ひだまりスケッチ』『スケッチブック』『みなみけ』『苺ましまろ』『ゆゆ式』などみんな、5年前にいまの部屋に引っ越してきたときに実家に送ってしまった。
そんななか、ツイッターで話題になったのをきっかけにハマり、展開を追いかけているBL漫画がある。なんでも分析して再構成してしまえる売れっ子漫画家が、唯一真似できないと思い、ファンになった売れない漫画家に尋常でない想いを寄せる。鬱とアル中でセルフネグレクトに陥っており、破滅寸前だったのを救い出し、自分の豪邸に住まわせ、徹底的に甘やかし、恵まれた暮らしを与える。しかしそこには歪んだ愛情がひそんでいるようで……。
心情描写にあらわれるリアルな昆虫。とりわけイモムシのたぐい。僕はとてもその種の虫が苦手。比喩とはいえ、そこだけ読むのがしんどい。
BL漫画、あるいはもっと広く恋愛漫画ではこういう心理の表現はポピュラーなのか? 有識者にきいてみたい。

真方敬道メモのこと

河野与一門下で哲学者で東北大名誉教授の真方敬道(まがた・のりみち)についても、いちおう公開した落合太郎、まだ準備中の鬼頭英一に続いて、いつか少しまとまった記事を書ければと思っている。以下はそのためのメモ。
主要参考文献:『異教文化とキリスト教の間』『中世個体論研究』『知られざる神』木田元『闇屋になりそこねた哲学者』、ベルクソン『創造的進化』訳者あとがき。
真方は幾何学が好きで旧制一高理科甲類(理系英語クラス。理科乙類は理系ドイツ語クラスで、医学部進学課程に近い)に進むも早々に数学志望を諦める。寮生活で同室だった梶山力(のちマックス・ウェーバーの研究者となるが早世)の影響で科学哲学などを漠然と志望する。語学が苦にならないタイプで、英語・ドイツ語・フランス語のほか、内村鑑三の高弟・塚本虎二の聖書講義でギリシア語を学ぶ。ただしラテン語は未習のため、旅先の修道院でフランス人の司祭から「このなかに誰かラテン語のわかる人はいますか」と問われ、悔しい思いをする(『創造的進化』あとがき)。ギリシア語学習に熱中し理科の勉強は手付かず。それでも何とか落第せず卒業できたので「若い人に寛容でありすぎるということはない」とのこと(「上の山にて」『異教文化とキリスト教の間』)。一時は数学志望が復活して、北大数学科を受けるが途中で受験を放棄。旧制高校の理科からでも文系学部に進学できた東北大か九大のうち、古代中世哲学が充実していた東北大に進む。
当初は宗教学に移り、旧約聖書の神観について卒論を書くつもりだった。東北学院の神学教授に就いてヘブライ語も学んだ(「上の山にて」)。しかし周囲の人びと、たとえばのちに木田元が良き兄貴分として慕った斎藤信治(「上の山にて」では信二と誤植)らに相談し、哲学に残ることにして旧制高校時代から読んでいたパスカルを専門に選ぶ。真方は一高時代からドイツ語よりフランス語を学んでいたらしい(『創造的進化』あとがき)。しかしパスカルに限らずフランス哲学を教えられる教官がおらず、まだ留学中だった河野与一に白羽の矢が立つ。
大学2年次(当時の大学は3年制)に帰国した河野から、真方はパスカルの個人教授を受ける。河野は数十ヶ国に通じた語学の天才にして教え好きで、自分の学生だろうがそうでなかろうが個人的に文献講読から初等文法まで教えるような人だった。実際、河野は東北大に当初「フランス文学」担当の教官として招聘されたので、哲学科の真方は本来なら直接の指導学生にはならない。しかしパスカルだけでなくモンテーニュ『エセー』の最長にして最重要の章「レーモン・スボンの弁護」も読んでもらったという(「上の山にて」)。
真方の経歴で気になるのは、大学卒業(1936)から北大予科助教授就任(1946)までの10年間の消息の謎。東北大卒業後、古典語の勉強と並行してパスカル研究をしながら、副手として勤務していたことは確かではある。理学部の「科学概論」担当教授だった三宅剛一のもとでプラトン対話篇の読書会に参加していたという。そして大学卒業の翌年、理系出身ということもあり、京大出身の三宅のすすめで「哲学研究」にフランスの物理学者ド・ブロイ(貴族の生まれで貴公子と呼ばれた)の個体論を翻訳して載せる(1937)。これがきっかけで真方はパスカルから、哲学史における「個体」の問題について、自分のキリスト教信仰と関連付けながら考えるようになる。(なおド・ブロイ『物質と光』の訳者は真方の師・河野与一である)
ちなみに三宅剛一が担当していた「科学概論」は文系学部のない時代に理学部生からの要求で開講されたという。田辺元、高橋里美など、哲学史の研究者というよりは、自身の哲学を立ち上げようとする体系的哲学者を多く輩出したポストであった。東北大時代はハイデガーなどを研究していた三宅もまた、戦後になって京大哲学科に移ってから、独自の「人間存在論」の哲学者となる。
しかし真方は副手として10年も勤務できたのだろうか。戦時中などどうしていたのか。「上の山にて」にはそのあたりの記述が一切ない。仙台も東北大も空襲を受けていたはずなのだが。年齢が高かったから徴兵はされずに済んだのだろうか。
1936年からの北大予科時代は短く、学制改革のあった1948年には東北大助教授に。恐らくは高橋里美の采配で、恩師の河野与一がこの年に仏文の助教授から古代中世哲学史の教授へ配置換えとなり(『学問の曲り角』)、その補佐役兼後継者として招聘されたものと思われる。
このころの大学や旧制高校の人事はおよそ似たようなもので、高橋里美もかつて「科学概論」の後任として旧制六高でドイツ語を教えた三宅剛一を呼んでいるし、河野与一は他にも仏文担当として旧制三高で教えた「第二芸術論」の桑原武夫を東北大に招聘した。
しかし河野は大学教授に馴染めなかったのか、1950年には辞職して岩波書店に移る。真方は助教授就任からわずか2年で急遽教授に昇進し、かなり苦労したようだ(木田元『闇屋になりそこねた哲学者』)。やはり旧帝大の教授というのは重荷だったのだろう。たとえば上掲の斎藤信治は日大予科、早稲田哲学科を卒業後に傍系入学として東北帝大に進んでいる。私大トップ校より格上だったのだ。学制改革の際には大学間の序列が激しくなってしまうため、帝国大学は大学院大学として残す案もあったほどである。
真方はド・ブロイの翻訳をきっかけにしつつ、新約聖書のよりよい理解のために中世哲学における個体観を追求していく(「上の山にて」)。中世スコラ哲学を理解するため、ギリシア語、ラテン語のほかアラビア語にも手を広げる(『闇屋になりそこねた哲学者』)。しかし博士論文も含め、本丸となるはずだったドゥンス・スコトゥスにまではたどり着けなかった(弟子たちによる追悼論文集『知られざる神』)。ドゥルーズ『差異と反復』によるドゥンス・スコトゥスへの注目、最近流行りのシモンドンの個体化(individuation)の哲学など、真方はある意味で哲学のトレンドを先取りしていたともいえる。

追記①

中学受験させてもらえなかったこと(長文注意!)

学力・風紀・治安いずれも最底辺の公立中学に通っていた。卒業式のときは「お礼まわり」対策のためパトカーが校舎に横付けされる(僕らの卒業する年だったか、式辞で「今年はパトカーも敷地内でなくそばの道路に待機するようになるほど生徒たちの気風も改善され……」的なことを言っていた記憶がある)。生徒はノックもせず職員室のドアを勝手にガラガラガラと開けて、たとえば人気のあった国語のマキコ先生を呼ぶなら「マキちゃーん、いっがーい?」、高圧的な態度で嫌われていた理科・学年主任のタツシ先生(タツシは下の名前)を呼ぶなら「おい、タツシ、いっが!」などと、先生にも方言むき出しのタメ口で話しかける。そのタツシ(下の名前)には、先輩からライターで火をつけられて休職したという噂があった(休職という言葉や制度がバカな生徒たちにはわからないので、「先生のくせに登校拒否した」と言われていた)。ネクタイを掴んで廊下を引きずられた社会の先生もいたそうだ。僕らのクラスでも不良を中心に、産休の先生の代講で来ていた、まだ若く、太って陰気な数学教師(気弱そうな女性だった)の授業を荒らし、ボイコットしていた。他の授業も私語ばかりで、先生に当てられても正答を出すのではなく、いかにウケる回答をできるかという「超低レベル大喜利」状態。若くてイケメンだった数学のシブティーなどは、授業中の衆人環視のなか、女子生徒から「シブティー、こないだ合コンで女の子お持ち帰りしたんだって?」とプライベートを暴かれていた。2年のとき埼玉から転校してきた同級生は「学校で授業中もこんなに私語が多いなんて考えられない」とカルチャーショックを受けていたようだった。

もっとも廊下を走っていたのが「スクール☆ウォーズ」のようなバイクではなく、あくまでチャリだったあたりが微笑ましいといえば微笑ましいのだが。あとは学校一の不良の先輩が(いま思うと知能指数ボーダーラインの「ケーキが切れない非行少年」だったと思われる)あるときバイクに乗ったつもりで、ハンドルを握る真似をして歩きながら「ブーンブブ、ブーンブブ」と嬉しそうにしていたのを思い出す。この先輩は態度が悪いというのでたびたび教頭から体罰を受けていたが、その教頭も実は体罰問題で一度厳重注意を受けたことのある人らしく、今度体罰がバレたら間違いなくクビになると言われていた。

生徒も不良だらけだが、教師も半ば「姥捨て山」のように少なからず他校で評判の悪かった人たちが赴任してきたような記憶がある。もちろん名誉のために付け加えておくと、スキンヘッドが特徴的で柔道の有段者だった英語のMr.Hage(本名のハガとかけたあだ名)とか、いつもアツい授業を展開してくれた国語のマキちゃんとか、抜群の英語力と有無を言わさぬ独特の威圧感をもっていたミズ・橘内とか、素晴らしい先生方もおられたことは確かである。しかし、あからさまなえこひいきをする英語教師のマスカル(2年のとき担任だった)とか、セクハラの噂が絶えない美術教師(県内の有力者らしく無碍に処分できないようで、被害に遭った女子生徒たちは泣き寝入りだった)とか、教え子を妊娠させてしまい結婚したという教師とか、悪い噂の絶えない先生が多かった。
上述の生徒からライターで火をつけられて休職した理科教師は僕らの学年で主任になり、とにかく高圧的な態度で嫌われていた。僕も何度目かの卒業式予行演習(マトモな学校ではないので何度も予行演習をやらないと卒業式が成り立たない)で、ちょっと卒業証書を受け取りに行くタイミングが早かっただけで、衆人環視の状況で「お前は成績がいいからって勘違いして自分が偉いと思っている」とさんざん怒鳴り散らされた恨みがある。

部活は強制加入で、しかも男子は運動部に入らなくてはならないという不文律があったため、やむなく友達の多くが入ったテニス部に籍を置いたものの、ほとんど3年間ボール拾いだけをしていた。たまにコートに立っても自分の運動神経が絶望的に悪いことを思い知らされるだけだったし、何よりメガネを壊してやろうと顔面めがけてスマッシュを打ってくる先輩がいて怖かったからだ。そのスマッシュを回避するために、唯一ボレーだけはうまくなった。
3年のときには顧問だった国語のマキちゃんから、「3年間裏方をよく頑張ったから」と町内大会より一つ上の地区大会(県大会の予選)に連れて行ってもらったこともある。もっとも選手としてではなく、審判要員として。
しかしマキちゃんは優しく、国語の試験(短歌と俳句がテーマの評論が試験範囲だった。いま思うと数奇な縁である)で百点をとったときは大絶賛してくれたし、読書感想文とはまた別の、読書感想文を朗読パフォーマンスして出来を競うという「読書発表コンクール」という(今でいうビブリオバトルと似たようなもの?)県の大会に出させてもらい、みごと優勝したこともあった。そのときクルマで送り迎えをしてくれたのもマキちゃんで、車内では『コージ苑』とか大人の漫画の話をしてくれた覚えがある。
とはいえいくら顧問がマキちゃんでも、テニス部は嫌だった。本当なら吹奏楽部に入部してドラムを叩きたかったのだ。そうしたら中高の文化祭でバンドを組んで演奏するなど、今に至るまでの「陰気な文学少年」とは違った道が拓けていたかも知れない。YMOのファンだったので、派手さはない代わりに機械的に正確な高橋幸宏のドラムが大好きだった。華やかなドラム・ソロに憧れるようになったのは高校、大学に進んでからだ。ともあれ、もし吹奏楽部に入れてドラムを叩けていたら、「自分には文学しかないんだ」と思い詰めて人文系の大学や、まして大学院などに進むこともなく、地方国立大の法学部や経済学部あたりから普通に就職して、ドラムが趣味の平凡な人間として生きていけたかも知れない。

他にも入学前から「男子は在校中必ず一度は先輩に呼び出されてボコされる」と言われていた。これは親の間でも噂になっていたらしく、母親から聞かされた覚えがある(そのことを知っていてなお中学受験させず、公立中学に入れた両親の判断はいまだに理解できない)。僕の学校では方言なのか何なのか知らないが、ボコられるではなく「ボコされる」と言っていた。
幸い「ボコされる」ことはなく済んだものの、1年の頃は筆箱をトイレに捨てられるなどクラスメイトから陰湿ないじめを受けたことはあった。もちろん身体的な暴力も伴う。いじめの主犯は、父親が早稲田卒なのに自分は勉強が苦手で、そのことをコンプレックスにしている男だった。彼に付和雷同的に他の生徒(スクールカーストでいうと中間層ぐらい)からもいじめられていた。

ともあれ、受験しないと自動的にそんな中学に進むシステムので、小学校高学年になると、教育熱心な家庭では引っ越しや中学受験を選んだ。男女問わず受けられたのは隣町の福島市にある地元国立大の附属中学で、地域の(のみならず県全体でも)トップ校に進学するうちのかなりの割合がここの出身だった。僕のように郡部の荒れた中学からトップ校に進学するのはレアケースだった。ちなみに女子には、附属中に行くほど成績が良くなくても入れる、地元短大の附属中学を受験するというルートもあって、そちらを選ぶ者もいた。あのときほど女子がうらやましかったことはない。
そういうわけで当然うちも父親が県庁職員だし、成績も良かったから受験するものと思われていたらしく、小6の秋だったか、担任の宍戸先生から受験について親に聞いてくるよう言われた。その日、帰宅すると、これは今でも鮮明に覚えているのだが、寒さからホットカーペットと長座布団の間に挟まって寝ていた母を起こして、
「先生から附属中受験しないのか親に聞いてこいって言われた」
と話すと、昼寝から起こされたせいか不機嫌そうに
「附属中には阿武急(福島市まで出るためのローカル線)からバスに乗り継いで行かなきゃならないんだよ、アンタに行けるわけないべした」
と一蹴された。いま思うと車を買い換えて間もなかったし、家を建てている真っ最中だった(翌年の夏休みに引っ越し。ただし学区は変わらないため引き続き同じ公立中に通い続ける)こともあり、附属中学まで遠距離通学させる経済的余裕はなかったのだろう。あとは頑固オヤジであるところの父の「中学なんてどごさいても勉強はできっぺで。変に附属校なんかさ入っち調子付かせるより、××中さ行がせて雑草魂で育てたほうがいいべ」というような教育方針も判定されていたらしい。
ともあれ実際、阿武急の運賃は高い。高校には阿武急で通っていたが、半年定期が学割でも8万いくらとかするのでそんな大金を持ち歩くのが怖く、親に学割証を渡して代わりに買いに行ってもらっていた。
それでも、幼馴染のMさんという女の子は附属中を受験し、進学した(のち高校で再会するが、典型的な陰キャのキモオタになっていた僕はクラスで毛嫌いされていたため、ドラマチックな再会とかにはならなかった)。
またガチャピンに似ているのでガチャピンの弟・ゲチャピンを略して「ゲチャ」のあだ名で呼ばれていた、数少ない話の通じる相手だったSくんという男の子は、理系科目が得意だったこともあり隣の県の高専に進学した。Sくんは股関節の病気か何かで1年以上入院して院内学級で勉強していたが、荒れ果ててマトモに教科書すら終わらない我が公立中学にいたときと比べて段違いに成績が上がっていて、うちの中学は院内学級以下なのかと嘆息したおぼえがある。
ちなみにMさんもSくんも、ふたりとも父親を早くに亡くしていた。良い学校に進学して早く家族に楽をさせてやらなければならないという意識があったのかも知れない。Sくんは長期入院中の経験から、周りにいたたくさんの重い病気の子供たち(小児がん、骨肉腫など)を見ていたため、彼らのような人たちをサポートできる機械を作るエンジニアになりたいんだと夢を語ってくれたこともあった。

高校進学後のカルチャーショックはすごかった。
必死に勉強して地域のトップ高校に入ってみたら、大学附属中出身者の中には東京の超進学校(開成とか学芸大附属とか)に進む人がいると知らされて、遠い目をしてしまったあの日のことを思い出す。僕がやっとの思いで入った県立のトップ校が、全国的に見れば「滑り止め」に過ぎないのだと知らされてしまったので。
カルチャーショックは学力だけにとどまらない。高校の同級生はみんな標準語で、丁寧な言葉で喋る。訛り剥き出しで、先生のことを直接あだ名か呼び捨てで呼ぶような生徒はひとりもいない。教師には常に敬語。そしてその教師の中には少なからず尊敬に値する人たちがいたし、与えられる知識は何もかもが新鮮だった。
また野球部や応援団を除けば、先輩後輩の関係もそこまで厳しくない。特に文化系。僕は文芸部と新聞委員(委員会だが、事実上有志の集まりなので部活に近い)だったので本当に助かった。

そして医者の子弟が多いため2年からは理系クラスの中にさらに医学部進学クラスがあり、学年320人のうち40人程度は医師になる。当然ながら、どこの家庭も基本的に裕福。中学時代はそこそこ恵まれた環境にいたはずの僕は、高校では(親からの小遣いが月に4000円未満と少なかったこともあり)恵まれない部類に入っていた。いちおう父親は県庁でも幹部候補の職員だったはずなのだが……。
修学旅行は公立校なのに、「将来のリーダーを養成する」と僕らの学年からシドニーでの英語研修に変わった。もっとも公立校ということもあり、安さ優先で夏の福島(盆地なので死ぬほど蒸し暑い)から冬のシドニーに行くというあまり嬉しくないコースだったが。
また当然のことだが、私語が乱れ飛んだり、ウケ狙いのふざけた答えばかりが続いたりして授業が成立しないということがない。休み時間に勉強していようが書き物をしていようが何も言われない。お陰で僕は短歌と俳句で賞をもらって、地方紙に大きなインタビュー記事まで載った。中学ではとうとう最後まで終わらなかった教科書も、高校では学期末どころかもっと早くに終わり、次の学年の単元に進む。
入学当初は、中学では習ったこともない「関係副詞」がいきなり初回の授業から登場。それに中学時代は数学の予習など一度もやったことがなく、授業中に先生が生徒と一緒に考えてくれるスタイルだったので(だから教科書が終わらないのだが)特に数学についていけなかった。
もっとも、僕がもともと理数系の頭を持ち合わせていなかったのもあるけれど。実際、受験業界では文系向けの暗記モノ扱いされている生物ですら、中学の理科の授業が「カルメ焼きを作って食べる」実験ばかりだったこともあり、やはりついていけなかった。できたのは国語だけで、現代文などはろくに勉強しなくても学年トップクラスにいられた。しかしこれは単純な読書量の多さゆえだろう。家が裕福で受験勉強は得意でも、読書の習慣がないなど、いわゆる「文化資本」に乏しい生徒はいくらでもいたから。「文化資本」の格差で悩まされたのは、都内の大学に進学してからのことである。

高校では授業進度の速さなどから悲観的になり、数学の夏休みの課題がどうしても終わりそうになかったため、1年の夏休みにひどい鬱を発症。自分には大学進学も就職もできないのだと思いこみ、生来の希死念慮傾向と相まって自殺未遂まで起こした。いざ新学期に登校してみると、夏休みの課題なんてみんな終わっていなかったのだが。比喩でなく死ぬ思いまでして頑張って損した、と思った。

その後、がむしゃらな努力が実って得意教科の国語以外も成績が伸び、また2年生からは文系クラスに進んだため理系科目の進度がついていけないほど速いということもなくなり(学年の半数以上が潰しのきく理系クラスに進む校風だった。8クラス中5クラスが理系クラスで、うち1〜2クラスが医学部進学クラス。高校ではとりあえず理系クラスに入るも、大学は私文に進むなんてことも当たり前)落ち着いて勉強できるようになる。
すると好循環で成績もどんどん良くなり、3年のときには東大受験をすすめられるほどの優等生になる。もっとも数学は出題傾向を予測して定期テストの点は取れるものの、模試などでは足を引っ張っていたし、地歴(日本史選択だった)をもう1科目(世界史)やる余裕もなかったため、他の国立大文学部を狙っていた。その後、幼いときから可愛がってくれた祖父の余命宣告、妹たちの不登校など家庭の事情が続いたこともあり、両親を説得して指定校推薦で早稲田文構に進む。
ちなみにこのとき推薦枠を奪ってしまった女子はその後一般受験で合格、大学3年からのゼミで一緒になり気まずい思いをした。彼女は大学卒業後、某有名ファッションブランドに勤めることになる。僕と比べれば遥かに勝ち組である。

もっとも、これらすべては過去のことに過ぎない。いまはなんの努力もできなくなり、鬱病でひきこもりの無職に成り下がってしまったが。



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