翻訳の(不)可能性をめぐって――谷崎潤一郎と九鬼周造

12年後からのまえがき

 ここに載せる文章は、大学三年のときゼミで出す論集に寄せたレポートです。当時ゼミでは谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を読んでいて、これを九鬼周造の『「いき」の構造』と比較検討するといった課題を先生に示唆され、こんなものを書いたのでした。以前やっていたブログに載せたこともあるのですが、ブログを消してしまったので、思い出したついでにここに載せる次第です。若書きですが、思い入れのあるものなので。

本文



 いささか楽屋裏じみた話から始めると、谷崎と九鬼は同時期に旧制一高に在学していた。少なくとも九鬼の方では谷崎を認識していたようで、『一高時代の旧友』というエッセイ(註1)にその名を見ることができる。一高卒業後、谷崎は帝大国文科を中退して作家活動に入り、九鬼は帝大哲学科・大学院を経て欧州留学に旅立つことになる。
 もっとも、別に二人が同窓生だからといってこの二人を取り上げようというのではない。九鬼が欧州留学中から執筆を開始し、1930年に発表した著作『「いき」の構造』と、谷崎の『陰翳礼讃』(初出は1933-34年)。この二つの日本文化論にはともに1930年代という時代性が刻印されているとともに、単なる作家・哲学者の「日本文化私論」に留まらない「文化論」としての視座が秘められている。そこで本稿では九鬼を通して谷崎を、あるいは谷崎を通して九鬼を読むことで、ささやかながら彼ら二人の内包する「文化論」への可能性を、特に文化の「翻訳」あるいは「輸出入」という点について提示することを試みる。
 一読して、谷崎・九鬼はともに「翻訳」や「輸出入」の可能性を否定しているように見える。『陰翳礼讃』の谷崎は映画、写真、筆記用具など具体的な例を引きながら、西洋文化の下で発明された種々のものごとを日本にそのまま輸入することの不都合さをしつこく表明している。その不都合さは作家の想像力によって突き詰められて、以下のような地点にまで到達する。

 たとえば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技術や工業もまた自(おのずか)ら別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工藝品でも、もっとわれわれの国民性に合致するような物が生れてはいなかったであろうか。いや、恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の見方とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われわれが教えられているようなものとは、異った姿を露呈していたかも知れないと思われる。(註2)

 逆に九鬼の場合は『「いき」の構造』の冒頭から、まず中心概念たる「いき」という語彙が日本語以外の諸外国語には翻訳しえないということを、英独仏語との具体的な比較を通して示そうとする。

 要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和(やまと)民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支(さしつかえ)ない。(註3)

 谷崎の問題意識は、もちろん漱石以来の日本文学に通底して流れている「輸入された近代への懐疑」というパースペクティヴの下で捉えることが可能だろう。あるいは皮膚、容貌、気候風土といったところに文化の根源を見ることで西洋と東洋という大まかな対立軸を引き出そうとする手法などは、帝大時代『新思潮』の同人であった和辻哲郎(彼も一高の同窓生であり、先述した九鬼のエッセイに名前が出てくる)との影響関係を勘繰りたいという欲求を刺激する。
 トーマス・J・ハーパーとエドワード・G・サイデンスティッカーの共訳による『陰翳礼讃』の英訳版In Praise of Shadowsでも事情は同じである。ハーパーは訳者序文の中で、谷崎が「芸術はわれわれの日常生活の一部として生きていなければならない」(註4)という見地に立っており、この点で美的生活を信条とする華道や茶道などの宗匠たちのような「輸出用にパッケージされた日本文化のイメージ」(註5)とは異なっていると述べている。当の谷崎の文章自体が西洋から日本への文化輸入に対して懐疑的なのであるから、訳者が原作者に倣ってこうした主張をするのも当然であろう。
 翻って、九鬼の場合はどうだろうか。「いき」概念の翻訳不可能性から出発する『「いき」の構造』は、それにも関わらず確認が取れただけでも英独仏の三ヶ国語に訳されている。そのうちの一つ、奈良博『対訳 「いき」の構造』は訳注で九鬼の論考が翻訳不可能性から出発することについて触れ、そのうえで翻訳の方針を示している。この英訳には豊富な訳注が付されてはいるが、九鬼の好んで用いる掛詞を完全に反映させるのはやはり困難らしい。こうしたレトリックにはむろん九鬼の個人的趣味もあるだろうが(九鬼には「偶然の産んだ駄洒落」(註6) というエッセイもある)、留学中に師事したハイデガーの影響もある程度まで推測される。ハイデガーにおいて駄洒落じみた語源探求癖としてあらわれる言語への偏執は、遠くラカンやデリダの特異な文体・語彙にもその遺伝子が見いだせる。その眷族に九鬼を加えうるとすれば、こうしたその言語に特有な掛詞の問題はより詳細な追及が必要とされることだろう。
 実際、この『「いき」の構造』という著作にはハイデガーの影響が色濃く反映されている。九鬼は序説において、「いき」という概念をその翻訳不可能性から「大和(やまと)民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つ」と捉えたうえで、『存在と時間』ふうの現象学的な手続きによる解釈を試みることを宣言するのである。この「民族」という語彙にも明らかにハイデガーの影響、そしてさらに言えば彼が代表する、1920‐30年代という「危機の時代」の空気がはっきりと認められる。それに後の九鬼が国粋主義的傾向を徐々に強めていくことも考え合わせれば、『「いき」の構造』の翻訳にあたってこの「民族」に対する訳語の選択が極めて重要な意義をもつのは当然だ。ところが奈良による英訳では、この語がethnic group やpeopleというややニュートラルな印象の訳語に対応させられている。上に引いた「大和民族」はYamato peopleであり、大和という語についての訳注もあくまで地名としての側面に着目した、あっさりしたものになっている。この辺りにも『「いき」の構造』を翻訳することの困難または不可能性が見て取れる。
 時代背景についてさらに付け加えるならば、先に名前の挙がった和辻哲郎もハイデガーの影響下にある哲学者であるし、するとあるいは谷崎までもこうした「危機の時代」の下で問題意識を形成していった一人だともいえるかも知れない。『「いき」の構造』の仏訳『La Structure de l’iki』では、カミーユ・ロワヴィエによる訳者序文において、「ゲイシャの世界というエキゾチックな幻想から遠い」(註7)日本文化論・美学論であるという点で『陰翳礼讃』との親近性が指摘されている(ちなみにこの仏訳版には谷崎の研究者として知られるジャクリーヌ・ピジョーが解説を寄せている)。一見なんでもないようなこの一節も、先に引いた谷崎の英訳序文における「輸出用にパッケージされた日本文化のイメージ」からの遠さ、という部分と照らし合わせてみるとどうだろう。注意深く「いき」概念の翻訳不可能性には触れず、むしろ九鬼とサルトルとの交友から彼の文化論をジャンケレヴィッチなどと擦り合わせていこうとするロワヴィエの筆致(註8)の中にも、やはり文化の輸出入や翻訳の不可能性という問題意識が孕まれていることが明るみに出てくるに違いない。
 ここまで見てきたとおり、谷崎・九鬼のテクストにはともに「翻訳不可能性」の問題があらわれている。そこにナショナリズムにも結び付きうるような兆候を見いだすことも容易にできるだろう。だが、そうした兆候を見つけ出すだけで、あるいはその部分だけを拡大して断罪するだけで本当にいいのだろうか。
 英米ミステリの翻訳家としても知られる田中小実昌は「翻訳あれこれ」というエッセイの中で、やはり翻訳不可能性の問題について触れている。翻訳は裏切り行為である、というクリシェについてあれこれ具体例を挙げて翻訳の不可能性を認めつつも、彼は一文をこう結んでいる。

 それでも、おもしろい作品にぶつかると、翻訳したくなる。これだって、ほんとに好きな作品、惚れた作品は、惚れてるからこそ、翻訳なんてできるもんじゃありませんよ、と言う人もあるだろう。そんな人の、そういうコトバも、ぼくはわかる。しかし、そういう人と、いっしょに酒を飲む気はしない。むこうだって、おんなじだろう。(註9)

 いかにも田中らしい一筋縄ではいかない文章ではあるが、翻訳の不可能性を噛みしめながらもなお、それに挑もうとする彼の態度が読み取れるだろう。こんな文章を書いた田中が、書斎の手の届く位置に『「いき」の構造』を置いていた、という『文藝別冊〈総特集〉田中小実昌』に紹介されているエピソード(註10)を重ね合わせてみたとき、にわかに『「いき」の構造』の結論部に置かれた次のような一節が浮き上がってくる。

 例えば、日本の文化に対して無知な或る外国人に我々が「いき」の存在の何たるかを説明する場合に、我々は「いき」の概念的分析によって、彼を一定の位置に置く。(……)そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。「いき」の構造の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。 (註11)

 田中とはずいぶん趣の違った文章ではあるが、ここで九鬼の言っていることは田中のそれとさして変わらないようでもある。「作品」か「いき」か、という対象の違いはあるものの、要するに翻訳の不可能性を踏まえた上でなおそこに挑む態度を表明しているという点では同じである。さらに付け加えておくなら、この部分は「無窮」という(恐らくベルクソンからの影響による)概念を軸として、「いき」の内包的構造について論じた第二章の、以下のような文章にまで遡って対応していることも指摘しておきたい。

 媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性として可能である。(……)「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して仆れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。(註12)

 つまり九鬼は「無窮」の翻訳不可能性に挑む者、とりわけ「いき」概念のそれに「無窮に」挑む自分自身を優れた媚態の、すなわち「いき」の体現者として描き出しているのである。柄谷行人は評論集『批評とポスト・モダン』で「『「いき」の構造』の方法そのものがいきである」 と述べているが、それは既に九鬼自身によって当該テクストの中で表明されていたわけだ。ちなみに柄谷のこの評論集には田中小実昌への言及もみられるが、九鬼に従えば田中もまた「いき」を体現する「悪性者」の一人ということになるだろう。
 そして谷崎潤一郎の中にもまた、彼らのような「悪性者」が潜んでいる。先に触れた『陰翳礼讃』英訳版の序文において、ハーパーはスーザン・ソンタグが1960年代米国の若者文化について論じた『キャンプについてのノート』を取り上げ、『陰翳礼讃』とのスタイルの類似についても触れている(註13)。両者の共通点は結局、ある文化の繊細で捉え難い本質を文章化することで歪めてしまわないために、具体的な事物を例にとった短い断章を積み重ねていくエッセイ的なスタイルを意識的に選択しているということにある。こうした谷崎やソンタグのスタイルもまた「意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を『課題』として『無窮』に追跡する」態度の一形態に他ならない。
 さらに言えば、谷崎において重要な「輸出入」の問題についても、九鬼を鏡として照らし出すことで新たな側面が見えてくる。九鬼は『「いき」の構造』の準備稿『「いき」の本質』において、明確に「いき」が西洋に輸入される可能性、さらには西洋から日本に「いき」が逆輸入される可能性をも認めている。一見すると谷崎における輸出入への懐疑と相反するような考え方だが、九鬼はそこで東洋と西洋という二元的な極を想定した上で、その間に発生する内面的緊張が文化を滅ぼさないために重要になるということを言っているのである。だとすれば谷崎の懐疑もまた、西洋や東洋といった曖昧な極に一元化されるのに抵抗し、あくまで二元論的な緊張を保ち続ける「無窮」の試みとして捉えなおすことができる。
 文化の翻訳不可能性に挑み続けるこれら「悪性者」たちの可能性は、やはり1921年という「危機の時代」の空気の中で書かれた、ベンヤミン『翻訳者の使命』へとつながっていることだろう。

註1 菅野昭正・編『九鬼周造随筆集』(岩波文庫、1991)88‐97頁
註2 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫、1975)16頁
註3 九鬼周造『「いき」の構造 他二篇』(岩波文庫、1979)17頁
註4 Jun’ichiro Tanizaki, In Praise of Shadows, translated by Thomas J. Harper and Edward G. Saidensticker, LEETE’S ISLAND BOOKS, 1977, p.48
註5 Ibid. p.47
註6 『九鬼周造随筆集』36‐38頁
註7 Kuki Shûzô, La Structure de l’iki, Traduit du japonais par Camille Loivier, P.U.F. , 2004, p.14
註8 Ibid. p.13
註9 大庭萱朗・編『田中小実昌エッセイ・コレクション5 コトバ』(ちくま学芸文庫、2003)、133-134頁
註10 南陀楼綾繁・内澤旬子「田中小実昌 掘りゴタツのある風景」『文藝別冊〈総特集〉田中小実昌』(河出書房新社、2004)、69頁
註11 『「いき」の構造 他二篇』、87‐88頁
註12 同上、23頁
註13 柄谷行人『批評とポスト・モダン』(福武書店、1985)235頁
註14 La Structure de l’iki, p.46

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