翡翠(かわせみ)に寄す──井上法子『永遠でないほうの火』書評(2016年、完全版)

5年後からのまえがき

歌集『永遠でないほうの火』の書評として『現代詩手帖』に2016年に寄稿した文章です。誌面に掲載されたバージョンは紙幅の制限から初稿よりもだいぶ削ったものだったので、ここに残しておきます。『カミーユ』一首評と同様、「日々のクオリア」と内容に重複がみられますが御容赦ください。

本文

 プラトンの作になるとされていた偽書に『かわせみ』という対話篇がある。水辺から聞こえる悲しげな声は何かと問うカイレポーンに、ソクラテスはそれこそかわせみという「哀しみ多く涙多き鳥」だと応え、愛する者を亡くした女が挽歌をうたいながら彷徨ううち鳥に姿を変じたという伝説について語る。

かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
ふいに雨 そう、運命はつまづいて、翡翠のようにかみさまはひとり

 水辺で悲しげに啼く青い鳥の形象は、この歌集の要所要所で召喚される。古代ギリシアのむかしから喪失の悲哀を託されてきたかわせみの、これはある意味で正統的な描かれ方かも知れない。「かわせみよ」の歌は巻頭、また「ふいに雨」の歌は「かわせみのように」と題された連作の冒頭にそれぞれ配され、その先につづくであろう喪失感を予告する。ここにいう喪失感は、具体的な人生の何事かに還元しえない性格を有している。「翡翠のようにかみさまはひとり」。響きわたるのは、かわせみと神様に共通の孤独。天災、死別、失恋――様々な人間世界の喪失に比して一つ上の次元の、より普遍的で透明な孤独感、喪失感がこの一巻を貫く通奏低音をなしている。
 巻末に収められた連作「そのあかりのもとで、おやすみ」に於いて、かつてかわせみであり神様であった孤独と喪失の象徴は、煙草屋に飼われる黒猫のチェホフに変身する。

煙草屋の黒猫チェホフ風の吹く日はわたくしをばかにしている
チェホフの背骨がしろく透きとおりわたくしだけに吹け青嵐
青年に猫の轢死を告げられてことば足らずの風が
わたくしのしょっぱい指を舐め終えてチェホフにんげんはすごくさびしい


『かもめ』の作者の名を与えられた黒猫に、ふと「にんげんはすごくさびしい」と吐露せずにはおれない。鳥の孤独、猫の孤独、神の孤独、にんげんの孤独、「わたくし」の孤独――。ありとあらゆるものが分かちがたく抱える本質的な孤独に、書き手はただ黙ってよりそい、そこに鮮やかな色を与える。


瞑ったらさいご ひまわり、ひまわりのきいろは熱くないんだよチェホフ
紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて


 ひまわりの黄色とそれにおびえるチェホフの黒。夢の世界を染め上げた紺青を切り裂いて飛びだしてくる、ゆめよりも青いかわせみ。(そういえば、かわせみはプラトンの使っていたギリシア語でアルキュオン、英語に直せばハルシオン。あの高名な睡眠剤と同じ名をもつのであった。)かわせみのようにひとり、かみさまのようにひとりである「すごくさびしい」存在者たちは黒猫のチェホフも「わたくし」も、その見つめる先にある色が「熱くない」こと、「永遠でない」ことを自分に言いきかせて生きてゆくほかはない。鍋の下でもえる火の色は、きっとかわせみによく似た夢よりもあおい青だろう。

煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

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