日記(le 17 juillet 2021)
真方敬道について新たにわかったこと
東北大で長年にわたり古代中世哲学を教え、自身は西洋中世哲学における個体論を軸に研究をしていた真方敬道(まがた・のりみち)という哲学者については、前にも少しメモを載せたことがありました。とにかく気になる人で、いつか時間とお金、それに世の中に余裕ができたらきちんと調べたいと思っています。
そんなわけで今回もメモへの付け足し程度でしかないのですが、真方について調べてみてわかったこと2件を新たに記録しておきます。どちらも国会図書館に遠隔複写を頼んで資料を入手したものです。無職なので使えるお金は限られていますが、遠出するわけにもいかない今、また大学図書館などからも足が遠のきがちになっているなか、貴重な調べ物の機会です。
わかったことのひとつは、東北帝大法文学部卒業(1936)後、副手をつとめていた時代に「哲学研究」という京大の雑誌に発表したド・ブロイの翻訳について。これは掲載誌のコピーが手に入りました。「哲學研究」第22巻第9册・第258號(昭和12年9月1日發行)に掲載された「物理的世界内に於ける個體性と交互作用…………ルイ・ド・ブロイ 文學士 眞方敬道 譯」です。例によって鬱病で本が読めないのに加えて、一般向けに書かれたものらしいとはいえ物理学の文献なので、本文にはまったく手を付けられていないのですが、84頁にある最後の訳者付記だけここに引用しておきます。
〔之は東北帝國大學の三宅剛一先生のお勧めによつてRevue de Métaphysique et de Morale誌、一九三七年第二號(四月發行)から譯出したものである。先生には暑中御多忙中にも拘らず拙譯に目を通されて明白な誤謬その他お気附きの事ども御遠慮がちに御教示下された。原文の優雅な大らかな味はひなど傳へることは及びもつかぬことであるが、幸ひにその大意を傳へて誤らなかつたとしたら、それは一に先生の御助力の賜物である。 仙臺にて眞方敬道記す。〕
(一九三七・八・一)
出典として挙げられた雑誌名からも推測がつくように、真方が訳したド・ブロイの文章は物理学の専門的な論文というよりは一般向けに自身の最先端の物理学説について解説した啓蒙的な著述だったのでしょう。これを京都帝大哲学科出身で、当時東北帝大理学部の「科学概論」(主に科学哲学などを講じるポスト)担当教官だった三宅剛一が、理系出身でフランス語のできる真方(もともとの研究テーマはパスカル)に訳すようすすめたようです。真方が東北大を退官する際の機関誌「思索」に載った教え子たちによる聞き書き「上の山にて」(遺稿集『異教文化とキリスト教の間』所収)などから推察すると、もともと幾何学が好きで数学者志望だった旧制一高理科出身の秀才・真方が、三宅のもとで開かれていたプラトンの読書会などに参加するなかで、科学哲学への関心を再燃させ、訳すことになったものと思われます。ド・ブロイのものはこの2年後の1939年に真方の恩師にあたる河野与一が『物質と光』を岩波新書で訳していますし(のち1972年に岩波文庫に入る)、このテクストを見付けてきたのも案外河野だったのではないかという気もします。
もうひとつわかったことは、1937年頃は東北大の副手をしていた真方がその後どうしていたか、その一端です。これは国会図書館オンラインで真方について調べたときひっかかる数少ない資料として気になっていた、心理学者・星野命の著作集第3巻『心理学 その境界を越えて』(北樹出版、2011年)に収録された「「人間のあり方」を示して下さった真方敬道先生」(310-311頁)という短い文章に掲載されていました。初出は「教育フォーラム」(金子書房)という雑誌の1990年7月号に掲載されたものです。以下、引用。
私はこの原稿を北の杜の都、仙台の宿で書いている。この仙台に来るたびに想い起こすのは、中学時代(それも第二次大戦中の)、横浜のK学院でクラス担任をしてくださっていた真方敬道(まかたたかみち)先生のことである。
戦時中、中学教師であった先生は、戦後いったん故郷の日向の国に住まわれたが、その後、仙台に移られ、東北大学の教授として、20年以上にわたり、ギリシャ哲学や中世哲学を講じられたと聞く。すでに故人となった、その真方先生を今も敬愛しているのは私だけではなく、2年3組のほぼ全員ではないかと思う。
われわれに「幾何」を教えてくださった先生は、板書が実にきれいで、図形には大きな板定規を使い、数字も一字一字明確に記された。お話はゆっくりと冷静に、一語一語かみしめるように話され、ときどきたれる髪をかきあげる手が細く、白墨で白くなっていたのを憶えている。
その先生から、今でいうホーム・ルームでわれわれに「一緒に読もう」と言われてとり上げたのが、パスカルの『瞑想録(パンセ)』と、『論語』であった。
名前の読み方が「まかたたかみち」になっていますが、これははっきりしたことがわからないので置いておきましょう。他の資料では「まがたのりみち」になっています。
ともあれ、まさか1936年に大学を卒業してから1946年に北大予科の講師になるまでずっと東北大の副手だったとは思えず、かといって長期にわたり徴兵された形跡もないので不審に思っていたのですが、真方は戦中、旧制中学の数学教員をしていたのですね。もともとユークリッド幾何学が好きだったという真方のことですから、戦時下で望みうるものとしては上々の仕事だったのではないでしょうか。K学院というのは関東学院のことと思われますが、真方はプロテスタントの信徒なのでそのあたりが採用に関係していてもおかしくはないと思われます。哲学科出身なのに数学教師というのは妙な気もしますが、大学ではなく旧制高校の理科を卒業した時点で自動的に「理科」や「数学」の免許も取れていたのでしょう。戦後の話にはなりますが、マラルメ研究で有名な菅野昭正の自伝『明日への回想』(筑摩書房、2009年)に、旧制高校の文科を卒業した時点で「二級教員免許状」を取れたとあります(133頁。国語か英語かその他の教科かは明かされていない)。今でいう短大卒で取れる二種免許のようなものでしょうか。そういえば『回想 河野与一 多麻』(「河野先生の思い出」刊行会、1986年)で読んだのですが、同じ河野与一門下の弟弟子に当たるモンテーニュ研究の原二郎も戦時中は旧制中学の教員をしていました(旧制中学教員時代に偶然河野と知遇を得てフランス文学の個人教授を受け、戦後改めて東北大哲学科に入り直してモンテーニュ研究に進む)。原の場合は仙台の旧制二高から京大の経済学部を出たあと会社員になり、徴兵を経てケガのため除隊(このことは原自身の回想では省かれており単に会社勤めに嫌気が差したことになっている)、会社には戻らず宮城県に帰って旧制築館中学で英語の「代用教員」をつとめたということなので(186-187頁)、あるいは真方も「二級免許状」ではなく「代用教員」だったのかも知れません。真方は実家が東京なので、横浜の関東学院に勤めたのは、仙台の大学を引き上げて実家に帰ったということでしょうか。
「戦後いったん故郷の日向の国に住まわれた」というのは恐らく誤解があって、「上の山にて」によれば真方は東京生まれ東京育ちで父親が薩摩の出身ということなので、疎開したのか戦後の食糧難を受けてのことかわかりませんが縁故を頼って宮崎なり鹿児島なりに一時身を寄せていたのでしょう。九州の南端に疎開していたのがいきなり北大に勤めが決まるというのは、今の感覚でもけっこう遠いですが、戦後間もない頃のことと思うとどれだけ遠く感じられたのか想像もつきません。戦後しばらくは日本の飛行機は運航を禁じられていましたし、新幹線もない時代です。長距離列車の旅も戦後間もない頃は本当に過酷だったと言いますから、ちょっとした命がけの大旅行をして真方は北大に赴任したのでしょう(2年後の1948年に恩師・河野与一の采配で東北大へ移る)。
卒論のテーマに選び、卒業後も中世哲学に専門を定めるまでしばらく研究テーマとして抱えていたパスカルを、旧制中学(今の感覚で言うと中高一貫の男子校といった感じ)の生徒相手に読んでいるのも、なんとなく涙ぐましいものがあります。大学を卒業して研究の途に就きかけたものの長続きはせず、暗い時代のなか、大学を離れて地元に戻り中等学校の教員をしながらなお学問への志は捨てきれない……というあたりに、シンパシーを感じずにはいられません。もっとも僕の場合はそもそも教職に就けるかどうか、あるいはその手前の教員免許を更新できるかどうか(来年で更新制は廃止になるそうですが)わからないのですが……。
木田元を読んで木場深定について調べたくなったこと
真方敬道について初めて知ったのは田中小実昌の哲学書に関するエッセイを読んだのがきっかけでしたが、より詳しく知ったのは木田元『闇屋になりそこねた哲学者』(ちくま文庫、2010年。単行本は晶文社、2003年)によってでした。超エリート校・旧制一高出身の真方には学歴意識のようなものがあり、旧制高校出身でなかった自分は嫌われていたと木田は書いていますが、彼はどうも話を「盛る」傾向があるようなので(『闇屋に……』は口述筆記をもとにした著作)本当のところはわかりません。木田は、自分が師事(兄事)していた斎藤信治に真方が昔いじめられでもしたのではないかと邪推していますが(118頁)、真方の聞き書き「上の山にて」では斎藤の名前が特に批判的な文脈でもなく自然に出てくるので(ただし「信二」と誤植あり)両者の関係が良かったのか悪かったのかははっきりしません。
この本の中で東北大時代、真方と同じく反りの合わなかった(が、個人授業などで多くを教わった)教員として出てくるのが木場深定(きば・しんじょう)です。(Wikipediaでは「きば・じんじょう」となっていますが、ここでは木田の著書に振られているルビに従って「しんじょう」と読むことにします。)木場についてはかなりバイアスのかかった記述がなされていて、テクストを正確に読むばかりで、何が楽しくて哲学なんかやっているのかわからないような人だという描写がなされています。
木場さんのお父さんは木場了本(きばりょうほん)さんといって、富山県のお寺の住職をしながら、西洋哲学の勉強をした人で、西田幾多郎(にしだきたろう)さんたちと交流があったようです。家にお父さんののこした本がたくさんあるので、もったいないから哲学をはじめたんだろうと、みんな悪口を言っていました。なぜ哲学などやる気になったのか、よくわからない人でした。でも、テキストだけはじつに正確に読みました。(99-100頁)
みんな悪口を言っていました、といいますが、こういうときはだいたい当人がいちばん悪口を言っていて、ほかの人たちはそれほどでもなかったりするものです(笑)。しかしこの本にまでなった木田の回顧録では、木場について少しひどい事実誤認が残されてしまっています。
木場さんは生涯に論文は一つも書きませんでしたが、ニーチェの『道徳の系譜』やヤッハマンの『カントの生涯』の翻訳をやっています。テキストを正確に読むことだけに情熱をかたむけたという感じの人です。(99頁)
いくら業績至上主義の現代の大学とは違うとはいえ、論文を一つも書かずに旧帝大の教授がつとめられたとも思えません。講義で学生に最新の研究成果を教授する「教育者」に徹する「書かない学者」タイプの帝大教授というのは、東京帝大の大塚保治や京都帝大の深田康算など(いずれも美学)戦前の古い世代に限られます。「書かない学者」が珍しくなってきた世代では木場と近い世代で、上述の河野与一や東大の伊藤吉之助(哲学)などがいますが、二人とも講義や演習に全力を傾けて毎年論文を書くといったことこそないものの、それでも岩波書店の企画物などに研究成果の一端を寄せているので「生涯に一つも」書かないような学者とは言えないでしょう。(漱石『三四郎』に出てくる広田先生のような「書かない学者」像については、高田理惠子『グロテスクな教養』ちくま新書、2005年を参照のこと。)
そして木場深定についてCiNiiやndlサーチで検索してみればわかるように、木場には1948年の時点で『真理と実存』(福村書店)というハイデガー論の著書がありますし、木田が東北大に入学した1950年から中央大に就職して仙台を離れる1960年までの10年間にも「理想」誌に「真理現象の存在論的意味──ハイデッガーの真理解釈」(1951年12月号)、「ハイデガーにおける「聖なるもの」」(1958年10月号)という2篇のハイデガー論を発表しています(ちなみに木田の学部または大学院在学中にはハイデガーについて特殊講義などもおこなっていたようです。参照)。さらに木田は木場からヘーゲルの『精神現象学』を読んでもらっていたと書いていますが、木場は木田が仙台を去ってから2年後の1962年に「ヘーゲル宗教哲学の研究 : 特に宗教的意識と哲学的思惟との関係について」という博士論文を東北大に提出して博士の学位を受けています。恐らく「理想」1964年10月号に掲載された「ヘーゲルにおける宗教の体系的意義と宗教哲学の課題」はこの論文の一部を活かしたものでしょう。これらのヘーゲルに関する論文は、木田たちが受けていたヘーゲル講読を背景とするものではないかと考えると、木場が生涯に論文を一つも書かなかったという断定的な決め付けとは裏腹に、木田はむしろ論文誕生の前段階をそれと知らずに見聞きしていたとさえいえるかも知れません。
では、木田はなぜ木場が生涯一編の論文も書かずに終わったという間違った記述をし、また調べればわかりそうなことを編集者らもなぜ訂正しなかったのか。理由は謎としか言いようはありませんが、木田が木場のことを「家にお父さんののこした本がたくさんあるので、もったいないから哲学をはじめたんだろう」と邪推したひそみに倣ってこちらも邪推すれば、ハイデガーに執心しながらハイデガーでは論文が書けなかった若き日の木田は、そのころ既にハイデガー論を著書や雑誌論文のかたちで世に問うていた木場のことを妬ましく思って、その著書や論文をなかったことにしてしまっていたのではないかと考えたくなります。
木田はハイデガーの独特な術語が平易な言葉に言い換えられてからでないと論文は書けないと考えており、卒業論文はカントの『純粋理性批判』で書き、そのあとの大学院時代から中央大学時代まではフッサールやメルロ=ポンティについて論文を書いています。
本当はハイデガーで書きたいのですが、なにしろ「世界内存在」とか「存在了解」とか「時間性」といった中心的な概念が、依然としてうまく捉えられないので、書くことができないのです。その後、次々に出てくるハイデガーの本はかたっぱしから読み、本当におもしろいのですが、それで論文を書くというわけにはいきませんでした。(136頁)
木田には、ハイデガーが言っていることをそのまま繰り返すような論文は論文とは言えないという強い信念めいたものがあるらしく、『闇屋に……』でも繰り返し語られています。
それでも、ハイデガーがたとえば「世界内存在」「時間性」「存在了解」ということでなにを考えているのか、ぼくにはさっぱりわからないのです。三宅先生(※引用者注:三宅剛一のこと)にもわからなかったようです。先生に質問すると「うーん、何だろうねえ」という答えが返ってきました。ドイツ人の研究者の書いたものを読んでも、わかっているとは思えません。「世界内存在」について、ハイデガーはこう言っていますということしか、誰も言っていないのです。「世界内存在」というのは変な言葉です。それなのに「現存在の存在構造は世界内存在である」といきなり言い出します。なぜ、そんな言葉をつかわなければならないのか、まったく説明していません。「世界内存在」という概念をハイデガーがどう定義しているのか、そんなことは十年もやっていればわかってきます。でも、それだけではわかったことになりません。そんな奇妙な概念をなぜハイデガーはつくりだしたのか、その心理的な動機までわからなければ、わかったことになりません。(140頁)
それは自分こそがハイデガーの奇妙な術語を平易な言葉に置き換えて論じ直したパイオニアだという自負によるものなのでしょうが、裏を返せば、なかなかハイデガー論を形にすることのできなかったコンプレックスを覆い隠すための言い訳ともとれなくもありません。実際、木場深定がハイデガー論『真理と実存』を著書として公にしたのが1948年なのに対して、木田がハイデガー論をやはり著書として公にするのは35年後、1983年になってからでした。
本当に書きたかったのはハイデガーなのですが、前にも言ったように、これはなかなか書けませんでした。ハイデガーで初めて書いたのは、「岩波20世紀思想家文庫」の『ハイデガー』で、これが一九八三年です。一九五〇年にハイデガーを読みはじめてから三十三年たっています。
この叢書は、二十世紀の思想家をその専門家にではなく、少し筋違いの著者に書かせる、たとえばトーマス・マンを辻邦生(つじくにお)さん、ピカソを飯田善國(いいだよしくに)さんに書かせるというものでした。ハイデガーをぼくというのは筋違いでもなんでもないけど、ぼくはそれまで現象学、つまりフッサールやメルロ=ポンティばかり書いていて、ハイデガーにはろくに言及さえしたことがなかったので、はた目には筋違いに見えたのでしょうね。(171-172頁)
ハイデガーをきっかけに哲学に志しながら、ハイデガーについて書けず、専門家ではなくむしろ「筋違い」の書き手と見做されたことに、少し憤慨したような雰囲気の語り方です。
この『ハイデガー』は、なにしろ哲学の勉強をはじめるきっかけになった思想家についてやっと書けるようになって書いたものだし、それまでの日本のハイデガー研究者の書いたものとはまるで違ったハイデガーでしたから、かなり大きな反響がありました。むろんハイデガー研究者たちは完全に無視です。お前たちがいままでやってきたことはみなムダだったといわんばかりのハイデガーですから、ムリもありませんが。(172頁)
こういう言葉の裏側には、自分がハイデガーについて書きたくて、でも書けないで陰で苦闘していたあいだ、ハイデガーを論じた著書や研究論文を出していたハイデガー研究の先駆者たちへの強いライバル心がうかがわれます。そういえば、ちくま学芸文庫版『存在と時間』の訳者でもある細谷貞雄との交流について語った個所(130-131頁)にも、細谷への苦手意識と対抗心がにじみ出ているようなところがあります。また、この本では褒めている細谷の北大時代の紀要論文「ハイデガーの思索とニヒリズムの転回」についても、旧制五高で細谷に学び、北大でも細谷の下にいたことのある徳永恂(とくなが・まこと)との対談では、改めて読み返してみると大したことはなかったと言っています(『知の攻略 思想読本3 ハイデガー』作品社、2001年、21頁)。
そして木田が対抗心を燃やしている先行するハイデガー研究者たちのなかには、当然のことながら著書や論文を早くから世に問うていた木場深定も含まれるに違いありません。テキストを正確に読むばかりで哲学の楽しさを教えてくれない木場のことを、哲学の楽しみを教えてくれた恩師・斎藤信治と比較して「木場深定さんなんかを見ていると、気が滅入ってきて哲学がいやになってきます。」(126頁)と書いているのも、木場が木田より35年も早くハイデガー論の単著を公刊していたことを考え合わせると違って読めてくるような気がします。
ちなみにこの『闇屋になりそこねた哲学者』では真方敬道についても、いくつか事実誤認が見られます。一高から東北帝大に進んだのを河野与一を追いかけてのことだと語っていること(実際は理系旧制高校出身者が受験できる帝国大学の人文系学部は東北大か九大に限られていたため。この事実誤認については「上の山にて」を読んだことのある誰かから指摘があったのだろう、木田自身による訂正が入っている)。論文をあまり書いていないのでわからないが専門はアラビア哲学のほうだと思うがアラビア語ができるとは思えないと言っていること(中世哲学にはアラビアの哲学者たちも絡んでくるし真方にはAvicennaについての論文などもあるが、あくまで研究の主軸は中世哲学における個体論について)など。なお反りが合わなかった木場・真方だけでなく、可愛がられたと書いている三宅剛一についても"東北大から京大へ転出して田辺元の後任になった"という事実誤認をしています(117頁)。正確には田辺元の後任は高山岩男だったが戦後公職追放に遭ったため山内得立が代わりをつとめ、その山内の後任が三宅です(竹田篤司『物語「京都学派」』中公文庫、2012年、270-280頁参照)。
このあたりも含めて、真方敬道と木場深定について、調べてわかったことをnoteにまとめておきたいものです(※三宅剛一については学習院大学の酒井潔教授らによる研究が若干存在する)。木場は大谷大学と縁が深く、大谷大学の機関リポジトリにある木場父子の略歴によると、父親の了本は東京帝大卒業後に本山からの資金で留学し、帰国してからは旧制四高の教授になるまでずっと大谷大学で教えていたとのこと。そして息子の深定は富山の旧制中学を4年修了後(当時の中学は5年制だが4年修了から旧制高校や大学予科を受験できた)、京都の大谷中学に移り、そのまま大谷大学予科・本科と卒業したあと「傍系入学」(それも聴講生を経て本科編入)で東北帝大に進むという珍しい学歴をたどっており、戦前の教育制度オタクの僕にはなかなか興味深いです。戦前から戦中であればあまり毛並みの良くない経歴ということで、旧帝大の教授としては不適切とされかねず、実際に戦前から戦中は松山高等商業学校(戦中に松山経済専門学校に改称。のちの愛媛大学経済学部)の教授をつとめていたのが、終戦の翌年になって東北大の助教授に抜擢されているあたり、時代の急激な変化を反映していておもしろく思われます。また木場は東北大を退官後は長年にわたって縁の深かった大谷大学で教え、停年後も非常勤講師として最晩年まで通っていたようです。もう少し本格的に調べたらどんな話題が出てくるのか楽しみなところです。
……もっとも、後期からは非常勤が始まるので本格的にその準備にかからなくてはなりませんし、来春以降生きていくとしたら職探しもしなくてはなりませんし、自分の博士論文だってまだ諦めきれてはいないのです。博士論文のことも考えるなら、直近の論文の〆切は9月末にあり、非常勤が始まるのも9月末からなので2つの準備を並行して進めなくてはなりません。そんな多忙なはずの時期に、何の得にもならない割に時間ばかり食う、この種の文章ばかり書いているわけにもいかないのですが……。
落合太郎について新たにわかったこと
真方敬道だけでなく、だいぶ前にまとまった記事を書いた落合太郎に関しても、雑誌の追悼記事数件と著作集未収録の随想1篇を国会図書館の遠隔複写サービスで確認できたので、これも追記というかたちで記録しておきます。
まず追悼記事からいくと、雑誌「心」1969年11月号(生成会)に載っているのが、直接の教え子ではない東大出身のの渡辺一夫と、直接の教え子である京大出身の河盛好蔵という二人による追悼文です。
渡辺一夫のもの(96-97頁)を読んでみて目新しいのは2点。ひとつは法学部出身の落合のことを言語学科出身と勘違いしていること。これは渡辺のほうで落合が「仏文出身じゃない」というのだけは知っていたこと、落合が京大で仏文講座の助教授から言語学講座の教授になったこと、そして渡辺自身も書いているように落合に西洋古典語の学殖が豊かであったこと、の3つが理由として挙げられるでしょう。実際、落合が法学部卒なのにラテン語はおろかギリシア語にまで通じていたのは彼の生涯を覆う謎のひとつです。
もう一点目新しいのが、落合にはパスカルの『パンセ』を全訳する計画があったらしいということで、「どうも完成しないらしいといふことを、数年前に耳にした。」(97頁)というから、1960年代半ば頃まで『パンセ』全訳の話はあったようです。渡辺は彼一流の慇懃な文章で、落合がどの程度まで『パンセ』の仕事をしていたのかわからないということについて触れています。「ジャーナリズム的なところのある仕事を嫌悪されてゐたらしい先生」(同)はその深い学識のためにパスカルの難しさをよくわかっていて全訳を断念したのではないか、学識の浅い者はすぐわかった気になって何でも訳してしまう、と卑下に近い(いかにも渡辺らしい)書き方で死者に対する礼節を保とうとしています。落合に深い学識があったことも事実なら、それゆえに全訳をためらったのもまた事実でしょうが、落合に病弱を理由にしたルーズなところがあったのもまた確かであり、『パンセ』全訳がどこかの出版社との約束だったとしたら、先延ばしにしているうちに時期を失ってしまったのかも知れません。それに落合より下の世代のパスカル研究者で、たとえば前田陽一のような最新の研究成果を踏まえて世界の第一線で活躍する人が出ていたことも、時期を失わせるに足る材料だったことでしょう。
河盛好蔵の追悼文(97-100頁)で目を引くのは4点。まず、落合が京大仏文で教えるようになって最初の年はルナンの『知的、倫理的改革』を講読し、またフランス語初歩のクラスも担当してこちらには吉川幸次郎も出席していたらしいということ(98頁)。次いで、京都学派の哲学華やかなりし日、パスカルを大学で講読していたことにちなんで『パスカルにおける人間の研究』執筆中の三木清が落合にいろいろ質問していたということ(99頁)。
さらに、自己を語らなかった落合の若き日を知るために、旧制一高〜京都帝大を通じて親友であり、内村鑑三のもとにも共に出入りした天野貞祐の証言がほしいということ(同。今回は著作権の関係で入手できなかったが、落合には著作集未収録の文章で内村鑑三について書いたものがある)。最後に、留学中の落合と親しかったひとりに早稲田大学仏文科の創設者でもある吉江喬松(孤雁)がいて、吉江の『仏蘭西文芸印象記』に収められた「地中海」というエッセイに出てくる、法律の勉強をしている「O君」が落合ではないかということ。三木清のほか、旧制一高で一緒だった天野貞祐、それに九鬼周造・和辻哲郎といった哲学者と落合との関係は気になるものがありますし、天野が落合について何か文章を遺していないかは特に調べておきたいポイントです。吉江喬松と留学時期が被っていることも『著作集』収録の文章には出ておらず、この追悼文で初めて知らされました。全集などをあたって吉江喬松の文章を調べてみたら、落合についてまた何か新しい情報が出てくるかも知れません。
もうひとつ落合太郎の追悼文を掲載していたのが筑摩書房のPR誌「ちくま」1969年11月号。こちらには生島遼一による追悼文が見開き2頁(6-7頁)で掲載されています。人柄を語ったところの多い文章ですが、目を引いた箇所としては、落合が授業でパスカルやモンテーニュ、ラ・ロシュフコーといったモラリストたちの文学を取り上げていたことには触れつつも、それだけでは終わらないところを伝えた箇所です。
しかし、私の記憶では先生はフランス文学のごく新しい作家の話を座談的によくされ、私にはそのことの方が記憶にはっきり残っている。プルーストとかバレスとかのことをきいたのは先生からで、私が初めてアンドレ・シュアレスの評論を読んだのは先生の本で読んだ。(7頁)
こちこちの古典主義者だった主任教授・太宰施門と、現代文学にも寛容な落合との間に文学観をめぐる対立があったのではないかというのは前の記事にも書いたことですが、ここでも落合が現代文学に関心を示すタイプの教師であったことがわかります。なお「先生の本で読んだ」というのは、「先生が訳した本で読んだ」というわけではなく(落合にはほとんど訳書がないので)「先生の蔵書から借りて読んだ」ということでしょう。
最後に、晩年の落合が「中央公論」1952年7月特大号の附録「読書と人生」に寄せた随筆「無題」から、いくつか気が付いたことを拾っていきます。
まず読書家のアメリカ女優がフランスまでの船旅でプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいたことを枕に、この大河小説を推奨していた九鬼周造や「吉江さん(留学中のエピソードとして出てくるので吉江喬松のことと思われる)」への義理から一度は読んだものの性に合わず2度目は読んでいないという話が語られます(290-291頁)。九鬼周造との具体的なエピソードが語られるのは『著作集』でもなかったことですし、上述のように吉江喬松のことは『著作集』に一言も出てこないので、貴重なものと思われます。何の説明もなしに吉江喬松のことをいきなり「吉江さん」と書いて放置しているのは高齢ゆえ仕方ないことでしょうか。その他、小学校から旧制中学のはじめにかけて漢学塾に通ったという記述(291-292頁)も目新しいものです。
それから落合の外国文学事始めとして興味深いのが、旧制中学を府立一中から明治学院に移ってから、アメリカ人教師の中のジョン・バラーという先生に可愛がられて、「學校の時間外にいろいろの書物を教へられた。詩ではロングフェローあたりからはじめてワーヅワース、テニソンなどをねだつて讀んでもらつた。」(292頁)というところですね。落合の外国文学との出会いは、まず英詩だったことがわかります。
そして旧制一高に進んでからはフランス語を第一外国語に選び、「九段の暁星の夜學にもかよひつづけた」(同)というぐらい語学には熱心だったようですが、そのきっかけには、子供の頃の画家志望があったといいます。府立一中を肺炎でやめてから明治学院へ移るまでの療養中に、白馬会の幹部だった安藤仲太郎という画家に郊外のスケッチなどによく連れ歩かれて、「太郎ちゃん繪かきにならないか、そんなら今のうちからフランス語をお習ひ、フランス語を習はないぢやいけねえ、いまにきつと役に立つよ」と言われたのだとか。
最後に付け足しのように旧制一高時代のことが書かれていますが、紙幅が足りなかったようでフランス人講師ジローのことについてだけ触れています。ここは学者としての落合太郎を考えるうえで興味深い箇所なので引用します。
一高には立派な先生が多くゐて、どの學科でも鍛へられたものだが、ここではフランス人のジロー先生のことだけ書く。先生にはフランス語のほかに西洋史もならつた。が、随意科のラテン語ではわたくしがたつたひとりの生徒だつたので、その學恩を忘れることができない。さしむかひだから怠けようにも怠けられない。初歩の文法から羅文佛譯・佛文羅譯の宿題で苦しめられたおかげで、どうやら字引だけはひけるやうにもなつた。そのころに手ほどきを受けたのが大へんよかつたとおもふ。(203頁)
太郎がジローのことを書いている、などという下手な洒落はさておき、おもしろいのは旧制高校の段階で既に随意科目とはいえラテン語があったということです。いま教育史の研究書などが参照できる環境にないのではっきりしたことは言えませんが、旧制高校に西洋古典語の授業があったのは本当に黎明期だけのことだったと思います。ヨーロッパで大学進学前の予備教育機関(グラマー・スクール、ギムナジウム、リセなど)がラテン語を課していたことに倣ったものだったはずですが、当のヨーロッパですら時代遅れ扱いされつつあった古典語教育、新興国日本には根付かなかったわけですね。そんなわけでラテン語のクラスには生徒が落合一人だったと。
しかしそのフランス語で習うラテン語に何とかついていったことで、後年には田中秀央と『ギリシア・ラテン引用語辞典』を編むに至るまでの古典語の素養を身に着けたのですから、落合もまんざら病弱でルーズなばかりでもなさそうです。
落合太郎に関しては他に、戦後間もなく軍隊から京大に復員してきた学生のために書かれたパンフレット『學問について 復員學生諸君へ』(京都帝國大學學生部、1946年)も入手できています。古いうえに粗悪な紙質ということもあってなかなか手に取りにくいのですが、中身を精査する機会があったらまた記事にしようと思います。
心身ともに不調なこと
心身ともに不調です。
鬱病は日内変動で朝から午前中にかけてがつらいのと、昼間はみんなが働いているのに自分は何もできなくてみじめだという思いに囚われてしんどくてならないのとで、なんとなく昼夜逆転の生活リズムが定着して1ヶ月ほど経ちます。しかし深夜、日付が変わったあたりから翌朝ぐらいまでにかけて、日内変動と変わらないような不調の波が来るようになりました。ここのところ過眠傾向なので眠っていられればいいのですが、寝付かれないと地獄です。希死念慮やら、自責の念やら、とにかくいろいろな自己否定の感情に襲われて、大波に揺られる小さな帆船のように、ただ嵐が過ぎ去るのを待って耐えるしかありません。生活リズムの狂いで日内変動も狂っているのか、あるいはまったく関係ないのか、それすらもわかりません。こういう話すらマトモにできないような、薬ばかり見ていて患者を見ないメンタルクリニックの医者のところに通っています。次の火曜も行きます。
身体も不調です。逆流性食道炎とストレスによる嘔吐は相変わらずで、今週は2度か3度、それもトイレまでこらえきれずに流しで吐いてしまっています(そのあとさらにトイレでしこたま吐く)。食べ過ぎで吐いたと言えなくもないのですが、普段の食事量から考えると格別食べすぎたという感じでもないのに吐いてしまうので、何か別な原因があるのだろうと思います。逆にひどく食べ過ぎて「これは絶対に吐いてしまう」と思ったときに限って吐かなかったり。よくわかりません。直近で吐いたのはこの日記の日付である17日の午後です。サンドイッチと餃子とチャーハンを食べて、少し食べ過ぎたかな、でも普段から考えたら食べ過ぎというほどでは……とか思っているうちに急速に気持ち悪さが襲ってきて流しで吐いてしまい、吐いたことで余計に気持ち悪くなってトイレに駆け込んでしこたま吐きました。そしてこれは子供の頃からなのですが、一度吐いてしまうと吐いたことがストレスになって、また身の周りのすべてが吐瀉物で汚れたもの、汚いもののような気がしてきて、どんどん敏感になって、そのあとも何度かトイレに駆け込んで吐きました。
それから前回のメンタルクリニック通院まで飲んでいたラミクタールという薬の副作用らしいのですが、右の腋窩に湿疹ができて痛痒くてたまりませんでした。左の腋窩も少し湿疹にやられています。今は薬をやめてだいぶ経つのと、湿疹の塗り薬を塗ったのもあって落ち着いてきました。腋窩のかゆみは一時はひどくて、掻きすぎて変な汁が出てくるようになっていました。
そんな頃、なんといえばいいのか、左腿の付け根あたりというか、左の内腿というか、もっと下世話な言い方をしてしまえば外性器の左隣のあたり(陰嚢と脚の境目あたり)もかゆくなっていたのですが、そのあたりにデキモノができて、かゆいだけでなく少し痛いなと思うようになりました。そのあたりがかゆいのはだいぶ前からだったのであまり気にしていなかったのですが、ちょっと痛いなと思ってから2日ほどで結構な痛みを感じるように。さらに3日目には患部が広がって赤く腫れ上がり、腫れていない部分も炎症を起こし、日常生活を送っているだけでもトランクスに擦れて痛くてたまらなくなったのですが、しかしそんな日に限って近所の皮膚科は休診日。
4日目に15時からの午後の部に何とか予約を入れることができて、何とかそれまで耐えれば……と思っていたら、その日の13時頃に赤く腫れ上がっていた患部の一部が潰れたというか破れたというか、とにかく嫌な感触がしました。慌ててトイレに行って確認するとトランクスに大量の血膿がついていて、嫌な臭いをさせています。慌てて血膿をトイレットペーパーやティッシュで拭って新しいトランクスに履き替えるも、血膿は止まらずまた汚してしまう。結局、大量のトイレットペーパーで10分ほど押さえつけては血膿だらけになったペーパーを交換し……というのを何度も繰り返し、いくらか血膿の出る量が少なくなったタイミングを見計らって、トイレットペーパーを包帯代わりにして最低限トランクスが汚れないようにだけ対処した状態で、ようやく皮膚科へ向かいました。皮膚科では血膿のひどさに、ただでさえ早口な関西訛りの医師がさらに早口になりながらガーゼを当て、1枚目のガーゼがすぐ使い物にならなくなるとスタンバイしていたベテランらしい看護師さんが複数枚のガーゼを持ってきてうまくテープで固定してくれ、ようやく血膿地獄からはいったん脱出できたのでした。
その後、前にもこの皮膚科には腋にできた粉瘤が腫れて来院し抗生物質の飲み薬を処方されたことがあったのですが、今回も粉瘤、しかし破れてしまった粉瘤ということで、飲み薬のほかに抗生物質の塗り薬も処方され、
「これを患部に塗り込んで、ただまだしばらく血膿は止まりそうにないから薬局でガーゼとテープも買って服が汚れないようにして」
とのお達しを受け、処方箋を受け取って病院を後にしたのでした。そもそも粉瘤が破けたこと自体が事態が一歩進展したことなので良いことなのだと医師は言っていましたが、その後も抗生物質を飲んだり塗ったりしているので痛みなどはかなり落ち着きました。それでも手先が不器用なのでうまくガーゼやテープを替えられず、ガーゼは中途半端に血膿にまみれ、結局トランクスにも血膿のシミを作ってしまい、さらにテープは皮膚の炎症を起こした部分にも貼らざるを得ないので剥がすときひどく痛むし、まだまだ大変です。下品な話ですが陰毛などが生えている場所でもあるので、テープがどうしても毛と絡まってしまい、剥がすとき地獄の痛みを感じることになります。
股ぐらの血膿の後処理に追われながら、いつ襲ってくるとも知れない吐き気に対処する。腋窩の湿疹もまだ油断はできない。精神状態は深夜を中心に最悪。そんな状態で今日も生きています。日頃の不摂生が祟っているとはいえ、もうちょっと何とかならんもんだろうか……。