春日井建「海の死」私記――悪の諸相あるいは海に降る雪――(初出『率』7号)
7年後からのまえがき
この文章は2014年刊行の同人誌『率』7号に掲載されたものに、いくらかでもnoteで読みやすいようにささやかな改稿を加えたものです。『率』7号は前衛短歌特集ということで、いろいろ話し合って分担を決め、僕自身は大学図書館の雑誌バックナンバー書庫を活用できる特権を活かして、春日井建の『未青年』にまとめられる前の雑誌初出を確認して、文献考証のまねごとをしてみたのでした。2014年には『率』5号にも塚本邦雄についての長い文章を1篇と寺山修司についての短い文章を1篇書いていますし、そのほかに博士課程1年目の大学院生として論文もいくつか書いたように記憶しています。失業して、博士論文も出せず、鬱病が悪化して1年に1篇も長い文章など書けなくなってしまった今の自分から見ると、若さゆえの気負いや衒いが鼻につくものの、よくこれだけの量を書いていたものだなあと驚かされます。
一、雪について
どの頁を開いても春の気怠い日射しや、夏の凶悪な蒼空や、ほのかな光の尾をひいて降る雨や、なにかしらそんな気象条件が文字よりも何よりも先行して読者の眼前に拡がってくるような、そうした書物が世の中にはときおり存在するものだ。青年期なる季節が人生にとっての夏に相当する期間であるとすれば、青春文学というものも自ずとその色彩の強い書物になるだろうと思うのだが、そのつもりで『未青年』の頁を繰るとその到るところには冷たく厳しい雪が舞っていて、なにとはなしに「青春歌集」という先入観をもって手にとった迂闊な読者はかなり面喰うことになる。といったことを語るのはつまりこの文章の筆者であるところの僕自身がこの迂闊な読者の一人に他ならないからであるが、その迂闊さをひとまず棚上げにしても、春日井建の第一歌集に雪の主題が頻繁に登場するというのは少なくとも否定しがたい事実であるといえる。
この伝説的な、というより半ば伝説そのものと化してしまった歌集を何らかの選集という形で手にとるときわれわれには既に何かの媒体を通じて、春日井建という作者名を拭いようもなく刻印された次のような歌のいくつかが知らされているはずだ。
大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき
空の美貌を怖れて泣きし幼児期より泡立つ声のしたたるわたし
太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
異同の多いこの歌集において、とりあえずこの四首はいずれも巻頭の連作「緑素粒」の、それも比較的冒頭といってさしつかえないであろう箇所に配されている。ここに見られる太陽や葡萄の形象はそのままこの連作全体、ひいては歌集一巻全体を通じて「夏」の強烈な光線を投げかけるよう機能しているのだといえば、『未青年』に夏のイメージをいだきつつ読み進める迂闊な読者であった筆者の自己弁解めくだろうか。
ところで少しばかりつまらぬ書誌的知識をひけらかすことをお許し願えば、この連作の元になった角川『短歌』一九五八年八月号掲載の「未青年」冒頭の一首は「空の美貌を……」であり、一方で巻頭歌としてあまりに著名な「大空の斬首」はそれからだいぶ先、同誌一九五九年四月号に発表された五〇首連作「火蛇」の中ごろにようやく見出される。恐らくはこれもまた伝説と化した三島由紀夫による序文との響き合いも考慮の上で、その残響いまだ消えやらぬ巻頭に配すべき歌として古典美の極致のような「大空の斬首」一首が選ばれたのであろうが、その経緯について読者は別に知らずともよいわけであるし、知ったところでどうなるものでもあるまい。しかしこの初出、すなわち『短歌』昭和三三年八月号に中井英夫が幾度とない改作を迫った末にようやく掲載された「未青年」連作の時点に於いては、むしろ次のような歌が少なからず見られたことについては、読者にいまいちど注意を促しておいてもよいかも知れない。
揺さぶりて雪塊おちくる樹を仰ぐ無法の友の澄む眼を見たり
別れきて吹雪ける夜の門を閉づあかせば父母はわがため哭かむ
綿雪に頬をうづめて彫りし面夜気に凍りてひびわれをらむ
鉄骨に足場をさがすわかものの股を吹きあげひかる雪炎
雪やまず窓に氷花の青白き夕べ着ぶくれて母は華やぐ
雪などひとひらも降ることのない「緑素粒」連作が形成されるより以前、未分化の状態にあった歌壇デビュー作「未青年」にあって顕著であったこれら雪をめぐる歌群は、歌集に於いてはすべて連作「雪炎」に収められることになる。同性への思慕を秘めた少年という漠然たる主題が、歌集として編纂される過程で、健康的な級友たちへの思慕と「無法の友」への思慕という二つの系統に分かたれ、前者が太陽や葡萄とともに夏の匂いを漂わせる「緑素粒」に回収される一方、後者は雪の降りしきる冬の情景「雪炎」へと収斂していくというのがまず妥当な見方であるわけであるが、妥当な見方であればこそ毒にも薬にもならないつまらない批評でしかない。筆者がこれだけの紙幅を費やして言わんとしていたのは勿論そうしたくだらぬ文献学者の真似事ではなく、つづめてしまえばこの『未青年』という歌集のそこかしこに雪が降っているという、それだけの事実である。
連作名でいえば、「緑素粒」「水母季」「奴隷絵図」「雪炎」「弟子」「火柱像」「血忌」「兄妹」「大洪水(現代歌人文庫版では「洪水伝説」)」のうち「水母季」「雪炎」「火柱像」「兄妹」の四つに雪の形象があらわれるほか、傷を負った少年の看護をエロティックに詠った「弟子」連作も「寒雷」「寒夜」といった語彙から、いちおう冬の連作に分類することができる。筆者の手許には三一書房『現代短歌大系』版と国文社『現代歌人文庫』版のテクストがあるが、この二者間に於いても既に膨大な異同がみられるなかで、唯一ほぼ異同が無いといってよいのが「水母季」連作である。そこでとりあえず、あくまで「とりあえず」の処置ではあるが、われわれはまずこの「水母季」およびその原型となった連作「海の死」(角川『短歌』一九五八年十月号)を出発点と仮定して、そこからこの『未青年』という歌集をこれまでのようにそこにそそぐ陽光のもとに置いて眺めるのではなしに、頁を繰るごとに雪のちらつく一冊の書物として読み直す作業を始めたいと思う。
二、海について
ここでわれわれはようやく、先に出発点と仮定した「海の死」に視線を向けることになる。「海の死」はテニヤンにおける学徒兵「兄」の戦死を題材とした歌群を含むという点で『未青年』中の連作「水母季」の原型となった作品ということができるが、しかしそれはあくまで一面的な見方である。雑誌掲載版「海の死」は散文詩風の長い詞書あるいはエピグラフを挟んで大きく二つの部分に分けられる連作であり、確かにその前半部に収められた二五首のうち一八首は「水母季」の母体を成すのであるが、逆に後半部に収められた二三首のうち、同じく「水母季」に吸収される歌はわずか五首に過ぎない。むしろ《暗緑の菌糸きらめく石壁にもたれて刑余の友を恋ひゐき》や《男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ》をはじめとする六首を含むという点で、この「海の死」後半部はむしろ『未青年』所収の連作「火柱像」における投獄された友人への思慕という主題を形成する核となったと言った方がいいのかも知れないほどなのだ。事実、歌集を編むにあたって削除された以下のような歌も同様の主題を連作としてまとめ上げる、その出発点として機能したとおぼしい。
刑務所の尖塔が射すむらさきの空より悲鳴に似て雨が降る
また悪をかさねむ友を恋ふ夜か海の野性に揺さぶられつつ
桂冠のごとく額にくひこめる君の巻毛が燃ゆるまなぶた
背きたるきみは詩歌に封ぜむになほも激しく恋ふわが生身
もっとも雑誌掲載当時には「海の死」という一個の連作であった以上、のちに「水母季」へと回収される戦死した兄の歌群と、「火柱像」を形成する投獄された友の歌群とは最初から別個の二つの主題として構想されたわけではなく、少なくとも歌集刊行以前にあっては混沌として一体を成していたと考えなければならない。無論、この時期『短歌』に掲載された連作は「未青年」五〇首をはじめ決して春日井のみの独創になるものではなく、少なからず編集者・中井英夫の編集が加わっていたことは既に明らかであるが、どこまでが春日井の独創でありどこからが中井の「演出」であったかが容易に確定しえない以上、一応ここでは別な問題として置いておくことにし、あくまで「海の死」は『未青年』収録歌群の多くを含むプレ=オリジナルと位置付けうる、一個の連作として検討されるのが適当だとするのが筆者の見解である。
ここで「水母季」につながる兄の歌群と「火柱像」につながる友の歌群とをつなぐものとしてまず想定されねばならないのが、既に引いた《また悪をかさねむ友を恋ふ夜か海の野性に揺さぶられつつ》の一首にも見られるように、連作の表題として採用されている「海」という題材であろう。「海の死」前半部でも「水母季」でも、遺族である「われ」や「父」が絶海の孤島テニヤンで戦死した学徒兵の「兄」を想うよすがとなるのが「海」という舞台設定であることは共通している。
テニヤンの孤島の兵の死をにくむ怒涛をかぶる岩肌に寝て
渦潮が罠のごとくに巻く海の不慮の死としてかたづけられき
泡立ちて月射す夜は白波も酒を醸せよマリヤナの沖
襲ひくる兄の死霊を逃れむと帆をはれば潮の香がなだれこむ
潮ぐもる夕べのしろき飛込台のぼりつめ男の死を愛しめり
水門へ流るる潮にさからひて泳ぎつつ兄の死も信じ得ぬ
生きをれば兄も無頼か海翳り刺青のごとき水脈はしる
海にもぐれば水母のごとく白髪を浮かせる父よ長子亡くせし
水葬のむくろ漂ふ海ふかく白緑の藻に海雪は降る
兄の戦死という主題と海という題材をめぐって今ここに引用した歌はすべて「海の死」からであるが、これらは二首目が「罠のごとくに」→「みどりの罠を」、九首目が同じく「漂ふ」→「ただよふ」と修正されたうえで、そのまま「水母季」にも収められている。恐らくは海水浴に訪れたであろう父子がその海の遥か彼方、テニヤンで戦死を遂げた「長子」ないしは「兄」へと連想を飛躍させ、とりわけその子――実は性別が明らかにされることは一度もないのだが、ほとんどの読者は歌壇的慣習に則ってこの作中主体を春日井建に準ずる男子すなわち「弟」と読んできた――は単にその死を悼むというよりは、ほとんど近親相姦的な思慕の情により粉飾することできわめて耽美的に描き出そうとしている。おおよそそのような解釈によって、これらの歌群は読まれることができるし、事実そのように読まれてきたというふうにまとめてしまってもさしたる不都合はない。あるいはさらに、歌集収録にあたってこの前半部から削除されたのも以下のような歌がほとんどであるという文献学的事実をもって、雑誌初出時においてはより「海」という題材が顕著に、前面に押し出されていたと付け加えて主張することも可能であろう(四首目の「酔い来し」の仮名遣いは原文ママである)。
荒潮につぶれし蛮声ちぎれとび茫洋と風の海暮れゆけり
夜の天を射しつらぬきて暮れのこり余光に白く輝ける海
桟橋を歩める素脚わななけりいきなり波濤に砕かれたくて
シューベルトの魔王するどし海を吹く無韻の風に酔い来し耳に
水鳥がしろき航路をひく夏も海図に黒き孤島テニヤン
最後に引いた「水鳥が……」の一首をもって前半部は終わり、詞書を挟んで連作「海の死」は獄中の友への思慕を主題とする後半部に入るわけであるが、先に『未青年』において「火柱像」連作を形成する核としての側面を強く主張したこの後半部にも実はやはり、兄の戦死をえがく「水母季」連作へと組み込まれる以下の五首が含まれていることを、ここで筆者は慌てて付言しておかなくてはならない(三首目「沁みゐる」は歌集では「沁み入る」と修正)。
泳ぎゆき濡れたる肌を横たへし洞(ほら)けむりゐむ海霧ふかし
赤錆びし潮に背すぢをひたしつつ廃船の底に読むヴェルレエヌ
海草の花芽ふふみて恋ひやすき胸に沁みゐる舟唄を聴く
内股に青藻からませ青年は巻貝を採る少女のために
舌根が塩に傷つく沖にまで泳ぐともわれはけだものくさく
もっともこの五首には「兄」や戦争の形象はまったくあらわれておらず、歌集で「水母季」連作に組み込まれたとしてもそれは「海」の情景やその舞台に置かれたナルシシスティックな自画像、そしてなにより兄への思慕がほとんど近親相姦的な恋情――それも「ヴェルレエヌ」が暗示するように同性間の――に近いものであることを読者に悟らせるための補助線として機能すべき歌という側面が強い。極限を恐れず言えば、これらの歌群は獄中の友への同性愛的恋慕を主題とする「海の死」後半部に収録されていようと、戦死した兄への思慕の情を主題とする「水母季」に吸収されてしまおうと、その果たすところの役割がそこまで大きく変わる種類の歌ではないのである。海を舞台とする同性への思慕という構図そのものは、その思慕の対象となるのが前半部に登場する戦死した兄であれ、後半部に登場する投獄された友であれ、少なくとも雑誌掲載時点では同様のものとして「海の死」なる四八首の連作にまとめ上げられているということができる。
それが前半部を「水母季」、そして後半部を「火柱像」というそれぞれ独立した連作へと組み換えられる過程で「海」という舞台設定は前者のみに引き継がれ、後者からはまったく抹消されてしまうことになる。このことは「海の死」後半部から歌集へと収録される際に、次のような歌群が削られたことからもうかがえる。
紫の流紋を描く海の崖切り立てり君なき胸きりたてり
暗き淵をただよひ流るる夜光虫青き奈落のひかりを放つ
空を飾り旋風が白くまきあがる溺れゆきたくて絵筆持つとき
雲明りする海遠くゆく船の方舟のごとき孤独なるさま
先述した《また悪をかさねむ友を恋ふ夜か海の野性に揺さぶられつつ》と併せ、獄中の友への思慕という主題において共通する「海の死」後半部が「火柱像」へと形成されていく過程で、意図的に「海」のイメージが削除されていったことが見てとれる。春日井における海のモティーフは三島由紀夫におけるそれと同じく船乗りに代表される荒々しい男性性の象徴として思慕の対象となるような「海」であり――『未青年』出版記念会に三島が送ったメッセージが「春日井君、君は今船乗りになりたいさうですが、僕も君の夢に全く同感する。僕も船乗りになりたくてたまらなかつた時代がある」と書き起こされていることに留意せよ――フランス語における女性名詞としての海、母なる海などと使い古された慣用句を口にするときの海、三好達治が旧字体の「海」の中には「母」がいるのだと詠いあげたときの海とはまったく別物であることはいうまでもない。
歌集を編むにあたって――わずかに《獄中の君を恋ひつつ聴けり磁気あらし激しき海を伝へる電波》の一首にみられる比喩的形象を除いて――「火柱像」から削られてしまったこの「海」という舞台装置が「海の死」の時点では「水母季」におけるそれと通底するかたちで残存していたという書誌学的な事実は、作者が創作にあたって戦死者と受刑者、兵士と罪人を同様な思慕の対象として捉えていたことの反映であろう、と筆者は考える。
「海の死」という同一の連作から枝分かれして「火柱像」に発展した《男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ》のような歌と、戦死した兄を中心として「水母季」へと組み直された《テニヤンの孤島の兵の死をにくむ怒涛をかぶる岩肌に寝て》や《泡立ちて月射す夜は白波も酒を醸せよマリヤナの沖》といった歌とを比較して、小池光は言う。「絶対悪徳は肉体のかたちを取ると犯罪者に体現され、国家のかたちにおいて戦争となる。これらの歌で、彼は、ぶ厚い胸板の囚人に託したことをそっくり戦争という現象に託している」(「絶対童貞の夢」)。ここにいう「ぶ厚い胸板の囚人」が戦争を扱った「海の死」において登場していたことを小池が了解済みであったか否かは著者には知りえないわけであるが、いずれにせよこの見立ては慧眼と称してよいものであろう。春日井にとって戦争は囚人と同様の「悪」の権化であるがゆえに、ただそれだけのために歌作の主題たりえたのだ。あとで詳しく触れるように、春日井には戦死した「兄」も獄中の「友」も実在せず、敢えて突き放した見方をすれば、この二者は彼にとって自分には為しえない「悪」を体現させるため想像力の中から捏造した作者の操り人形、虚構の登場人物に過ぎないとさえいうことができよう。あるいは「海の死」という同一の連作において、同じく海の男性的なイメージを負わされ、また同じくいささかの同性愛的な味付けを施したうえで創作されたということに限っていうのならば、戦死した「兄」と男囚の「友」とは、まったくの同一人物でありえたかも知れないのである。
三、悪について
「近頃では悪が詰まらなくなってきた。悪がってみせたがる偽悪マニアはともかく、悪の品質が安っぽく水っぽくなってきたのだろう。悪の恩寵に恵まれそうにない連中までが猿真似で調子づいている。従って、坊主や軍人や詩人の別なく、好し悪しの判断もくだらなくなってきた。いまや、これはと思う悪は急速度で回顧的に悪化しつつある」――加藤郁乎がそう書いたのは『ユリイカ 総特集ボードレール』(一九七三年五月臨時増刊号)でのことだった。それからもう四十年以上の時を経て、いよいよ悪の何たるかの判然としなくなってしまった現代にあって読者はもはや『未青年』一巻を「身辺的な悪の中に、無自覚に自己をひろげていくというのではなく、悪の自覚、悪の信仰によってめざめ、それによって汚れた世俗から自己を区別し、退屈な倫理に挑戦する生の革新をつかみとろうとはかっている」(菱川善夫『歌のありか』)記念碑的な歌集として読むことができなくなっているといっても差し支えないだろう。かつて『未青年』の読者の一人であった澁澤龍彦は「この美しい青春の流露の書を読みながら、作者の大人になった日のことまで心配してやる必要は全くないのであり、それはお節介というものだろう」(「現代日本文学における〈性の追求〉」)と書いたが、大人になるどころか作者の死後という時間にあって初めてこの歌集と接した筆者のような読者にとってこの時間の経過に伴う「悪」の変質は、お節介などと言っていられない現在の問題なのである。たとえばいくら小池光が「自己愛、同性愛、近親相姦、マゾヒズム、サディズムなど『未青年』はさながら禁じられた性の百科事典の様相を呈している」(「絶対童貞の夢」)と並べ立ててみたところで、この歌集に収められた「禁じられた性」の輝きは刊行当時と比べて大幅に減じてしまっていると言わざるを得ない。ときに保守的な政治家や団体が時代に逆行するかのように多様な性の在り方、性の表現を規制し、弾圧しようとするのはもしや「禁止」を再び強化することで失われた性の輝きを取り戻そうとする果敢ないもがきなのではないかと、筆者などは想像力をたくましくして勘繰りたくさえなってくる。
性にしても戦争にしても、悪というものは時間によって移ろいやすく、風化しやすいものだ。春日井の戦争観について三島由紀夫は言う。「もし戦争が接近すれば、政治家たちは青少年に、戦争を正義の戦ひといふ風に説得しはじめるであらう。そのときそれは悪の魅力をすつかり失ふから、青少年はもうそれを夢みることはないであらう」(「春日井建氏の歌」)。いくら小池光が、春日井建にとっての戦争は「実際の戦争」ではなく「鏡の中にあるよりほかない」「唯一絶対悪徳の全き象徴としての絶対戦争」であると主張し、「戦争に反対するとかまた賛美するとか、そういう平面を抜けたところに彼の戦争は創造されかけており、これは春日井建だけが歌いえたものの輝かしいひとつといえるだろう」(「絶対童貞の夢」)とその作品としての自立性を称揚しても、三島の言うような社会情勢の変化によって「実際の戦争」が接近すればやはり春日井の歌もまた「悪の魅力をすつかり失」いかねないのではないか。小池自身も言うように「絶対悪徳」とか「絶対戦争」とかいったものが所詮「鏡の中にあるよりほかない」ものだとすれば、鏡の中ではなく現実の世界に書物という形式でもって確かに存在する『未青年』あるいは「海の死」というテクストもまたやはり「絶対悪徳」たりえることなく、その置かれた社会的、政治的状況によって善になったり悪になったりするようなごく普通の「相対悪徳」としてしかありえないはずだ。たとえ作品の内容が虚構という「鏡の中」の世界を形成しているにしても、その物質的支持体たるテクストそのもの、書物そのものは(そして蛇足を承知で付け加えるなら、そのテクストないし書物を読むことで虚構の内容を作動させる受容体としての「読者」もまた)現実の世界に存在しているのだから。
そう、確かにテクストは言語として現実に存在している。存在していながら、そのテクストを、言語を支持体として立ち上がる作品の内容というおぼろげな実体なき幻はあくまで虚構である。言語としてのテクストが支持し、あるいは指示している領域は「虚構」であるとしても、物質的には「現実」なる領域に存在している。文学言語が抱えるこの根源的な矛盾、根源的な位相差が「絶対悪徳」たることを不可能ならしめているわけであるが、筆者はここで『未青年』ないし「海の死」の悪徳というものが現代において可能となりうるのは、まさにこの矛盾、この位相差という領域――あるいは領域と領域の「あいだ」――でしかありえないのだという、いくらかひねくれた、そしてどうにも七面倒くさい仮説の提案をもってこの稿を締めくくろうと考え始めている。
ジョルジュ・バタイユはサドについて言う。「サドの作品の本質は破壊することなのである。それも単に作品中に登場させた客体や犠牲者たち(作中においてこれらの客体や犠牲者たちは否定の狂熱に対応するに過ぎない)だけを破壊するのではなく、作者と作品それ自体をもまた破壊することなのだ」(Georges Bataille, « La littérature et le mal » dans les Œuvres complètes, tome XI, Gallimard, 1979, p.244)。そしてまた、ピエール・クロソウスキーはそのジョルジュ・バタイユについて言う。「ジョルジュ・バタイユにはサドと共通する点がある。それは、彼にとってポルノグラフィは肉に対する精神の闘争の一形式であり、その意味で無神論によって限定される形式であるということ、そしてもし肉を創造した神が存在しないのであれば、肉の放蕩を沈黙へと還元するために精神に残されているのはもはや言語の放蕩だけだということである」(Pierre Klossowski, « La messe de Georges Bataille » dans Un si funeste désir, Gallimard, 1963, p.126)。
春日井建における悪は、単に作中に戦争や囚人、かつて禁じられ倒錯とされた性愛のさまざまな形などといった意匠を導入することだけではなかった。「肉の放蕩」に対する「言語の放蕩」。ここに放蕩と訳したexcèsという語はあるいは「過剰」と訳した方が適切出るかも知れない。ともあれ、小池光の要領よい要約を借りれば「刺激的挑発的モチーフを抱え凶々しい語彙を散らしながら、歌のつくりにおいては反対に、むしろシンプルな構造」をもち「明澄でわかりやすく、古典的端正さを感じさせる」(「絶対童貞の夢」)春日井建の短歌において、肉の放蕩あるいは過剰がもはや「悪の魅力をすつかり失」ってしまったとき、それでもなお彼の歌に「悪」がありうるとしたら、そのために唯一残された言語はどのような放蕩、ないしは過剰さをもちうるのだろうか。『未青年』あるいは「海の死」が現在においてなお、バタイユがサドについて指摘したような本質的に「作品それ自体をもまた破壊する」作品でありうるとすれば、それはいかにして可能であるのか。
先に思わせぶりなほのめかしをしておいたように、春日井の「海の死」ないし『未青年』に登場する戦死者の兄や獄中の友は虚構の人物であり、恐らくは実在しなかったものと断言していい。喜多昭夫の手になる年譜(『現代詩手帖特集版 春日井建の世界』)を見るかぎり現実の春日井建という人間には姉、弟、妹が一人ずついたが、兄がいたことを示すような文言や、ましてその兄が学徒出陣の末に戦死したといった記述は一切見当たらない。そして追悼座談会「〈未青年〉という存在のかたち」での妹の森久仁子や地元・名古屋の友人である写真家の浅井愼平の証言によれば、確かに彼らの少年期には原風景のひとつとして刑務所があるにはあったし、受刑者との交流が皆無というわけではなかったようだが、歌に詠まれているような「友」が入獄していたというような事実はやはりなさそうである。
しかし「兄」「友」といった指示対象が実在しなくとも、言語そのものは書物や雑誌の頁上に文字という形をとって現実の世界に確固として存在する。文学テクストとしての言語がもつこの二重性、現実と虚構の二つの領域にまたがって存在するという存在様式こそが、ときに「悪」として機能することがある。言語はつねにその二本の脚を現実と虚構という両立しえない二つの岸に片一方ずつ置いている。このごく基本的な事実を読者が見誤るとき、現実と虚構の混同というかたちでこの「悪」は顕現する。虚構そのものが悪なのではない。それを現実と混同するとき初めて「悪」が生ずるのだ。そして付け加えておくならばテクストは、言語は決して誤ることがない。誤るのはいつも読者である。
尾崎左永子は春日井への追悼文「未青年の訃」で次のように書いている。
春日井建の作品にはじめて触れたのは、昭和三十三年頃だったろうか。当時中井英夫が編集長だった角川の「短歌」だと思うが、「未青年」五十首が掲載され、中でも、
兄よいかなる神との寒き婚姻を得しや地上に雪重く降る
の、すぐれた詩性に魅了されたのを、今も鮮明に覚えている。この時の構成では「兄」を実兄とは思わなかったし、他に兄の歌は含まれていなかったように記憶している。のちに歌集『未青年』を読んで、戦中に喪った実兄があったらしいことを知った。
記憶を頼りに、恐らくは急いで書かれた文章なのだろう。そのことは「だったろうか」「だと思うが」「覚えている」「記憶している」といった文言が頻出することからも容易にうかがえる。そしてこの種の記憶だけを頼りに書かれた文章が往々にしてそうであるように、ここに引用した尾崎の追悼文の一節もまたたくさんの「誤り」を含んでいる。春日井に「戦中に喪った実兄」がないことは勿論だが、他にも「兄よいかなる神との……」の初出は「未青年」五〇首ではなくその二ヶ月後に発表された「海の死」四八首であるし、その構成から「兄」を実兄と思うかどうかは個々人によって判断の分かれるところであるが、これも今まで見てきたように少なくとも「他に兄の歌は含まれていなかった」という記憶は誤りである。歌集『未青年』所収の「水母季」に対して「海の死」がその原型といってよい位置付けにあることはこれまで論じてきた通りであるし、たとえば『未青年』出版以前に書かれた文章「春日井建氏の歌」で三島由紀夫は《生きをれば兄も無頼か海翳り刺青のごとき水脈はしる》などの歌を「学徒兵の死を悼む歌」として引用しており、この「兄」を実兄と思ったかどうかはともかく、兄が学徒兵として死ぬ物語を「海の死」連作に読んでいたことがわかるから、雑誌初出時の構成と歌集収録後の構成とで「学徒兵としての兄の死」の読みとり可能性にはさしたる差はなかったと考えることが可能だろう。いずれにせよ追悼文執筆時点での尾崎の記憶はかなり曖昧であるといえ、付け加えておけば尾崎の引用したこの一首は初出誌『短歌』でも歌集『未青年』でも《兄よいかなる神との寒き婚姻を得しや地上は雪重く降る》であり、「地上に」とする引用もまた誤りである。
むろん時を経れば記憶が不確かになるのはごく自然な現象であり、さらに執筆時点でアクセス可能な資料の範囲や作者当人との交友の深さなど読者によってそれぞれ条件は異なるわけであるから、ここで筆者は別に、たかだか一頁半の追悼文に誤りが含まれているからといって尾崎を批判しようとするものではまったくない。尾崎の文章を引用した理由はあくまで、読者が虚構と現実とを混同しがちだというその端的な一例を、これまで検討してきた春日井建「海の死」という連作についても挙げることができるというその一点にとどまる(同じ文章で尾崎が自身を前衛短歌に対する「写実派」に位置付けていることが、彼女に虚構と現実との混同を起こさせた大きな要因と考えられるにしても、だ)。
確かに短歌はいまだその言語が指示する内容もまた現実の世界における作者の境遇と対応しているものと前提し、とりわけ肉親の死や戦災、自然災害など命に関わる主題についてその原則に反するものがあれば少なからぬ非難や議論を呼び起こすという、奇妙に怠惰な慣習が相も変わらず保持されている文芸ジャンルの一つであるが、別にこれとて短歌に限った話ではないだろう。他のジャンルにおいても読者は往々にして同様の誤りを犯しうるし(筆者は幼少期にジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』を読んで実話だと思い込んだ経験がある)、短歌特有の慣習に拠りかかった読者でなくとも、事前に情報が与えられていなければやはり、現実に春日井建は戦争で実兄を亡くし、寺山修司は死んだ母の櫛を埋めにいったと思い込む可能性は大いにある。虚構を現実と混同するか否かということについては様々な要因が考えられ、読者個々人についてその条件が異なる以上、統一的な基準を打ち立てることは不可能だといっていい。
それを踏まえたうえでなお、短歌というジャンルが現在より遥かにその怠惰な慣習の上に胡坐をかいていた時代にあって、年譜その他に拠って事実関係を詮索することなど思いもよらぬ時点で意図的に、まだ生きている母親を歌の中で殺したり、逆にもう死んだ父親を生きているかのように詠みこんだり、そして春日井建のように実在しない兄の戦死を悼んでみせたりすることは、少なからず読者をして虚構と現実を混同せしめんとする試みであったということができる。これこそが短歌という文学言語の一形式において春日井建が為さんとした(クロソウスキーの言葉を借りれば)「肉の放蕩」に対する「言語の放蕩」の側面である、というのが筆者のひとまずの結論である。菱川善夫は前衛短歌の前衛性を「想像力の犯罪性」に置いたが(『歌のありか』)、もしかすると想像力それ自体が既に犯罪的なものなのかも知れない。
これはごく暫定的な結論であるし、何より短歌という文芸ジャンルひとつをとってみても、その読者たちが有する虚構と現実との判別基準は個々人のおかれた状況に応じて多岐にわたっており、またいつ大きな変化を被るか知れたものではないから、ここで春日井建が為した「言語の放蕩」を「絶対悪徳」であるなどと断言することはしない。ただ最後に春日井建「海の死」の中から、自分が意図的に現実と虚構とを混同させようとしていること、つまり自覚的に嘘をついていることを読者にそれとなく示すかのような、そんな一首を引いてこの稿を閉じたい。なおこの歌は歌集『未青年』では「奴隷絵図」連作に収録され、「恋う」は「恋ふ」と改められている。
狼少年の森恋う白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ
(Le 25 octobre 2014, jeudi.)