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ゆで卵と長芋のシンプル煮

夜更けというにはまだ少し早い時間、近所で何かに吠え立てている犬がいました。
きっとどこかの飼い犬なのだろうけど、これがなかなか収まる気配がありません。家人が留守で誰も止めに入らないのかと思っていたら、同じアパートの一室から、ふいに「うるさい!」と一喝する男性の声がきこえてきました。
たしかに怒鳴りたくなる気持ちはよく分かります。けれども自分には、その犬と同じくらい、いやそれ以上にその声がどこか疎ましく感じました。
そう思ったのは、子供の頃の一人で留守番していた夜のことを想起していたからかもしれません。
正確にいうと、「ルル」も一緒でした。
ルルというのは、当時飼っていた雑種の犬で、自分が物心ついた時から既に家族の一員として、いつもかたわらにいました。ふだんは、ちょっとした濡れ縁の下を寝ぐらにしており、家の中に入りたくなると、ガラス戸を前足で引っ掻いて、玄関の上り框でよく居眠りしていたものです。
その日は、冷たい風の吹く夜だったと記憶しているのですが、以前にもお話しした通り、ひどく怖がり屋だった自分は、心細さを感じながらも、テレビアニメで気を紛らしていました。
すると、門扉をガチャガチャと開けようとする音がします。
親が帰ってきたのかと最初は思いましたが、どうやらそうではないらしく、途端にこわばる自分がいました。
というのも、何分古い家の古い門扉だったので、あけたてにもちょっとしたコツがあり、慣れていれば扉越しでも簡単に開けることが出来るですが、その人物は初見とみえ、かなり手間取っているようです。門灯もなく、手元が暗かったせいもあるのでしょう。あきらめる様子もなければ、そこから呼びかけることもなく、錆びついた錠を何度も擦る音だけが、不気味に響いています。
自分はといえば、テレビの音を消し、ただ息をひそめるしかなく、不安が募るばかりでした。
しばらくして、異変を感じたのか、外にいたルルが急に吠え始めました。
そのけたたましさは、相手を威嚇するには十分で、ある種の凄みさえありました。ふだんはとても大人しく、お世辞にも番犬というタイプではなかったのですが、その時ばかりはまるでシェパードにでも変貌したかのようでした。
訪問者も、闇中からの突然の咆哮にびっくりして、あわてて退散したようです。
結局、その人物が誰だったのか分からずじまいでしたが、いずれにせよ不安でたまらなかったのは事実で、あの夜ほどルルがいてくれて助かったと思ったことはありません。翌日、大好物のちくわをご褒美に上げていると、そこには夕べのシェパードの姿は微塵もなく、毛むくじゃらの穏やかな老犬がいるだけでした。
こんな小さな体にも関わらず、あのような雄叫びを上げられることがふしぎでならず、その一方で、屋内でなすすべもなく縮こまっていた自分を思い、少し情けなく感じたものです…。
大人になった今も、勇ましさとは程遠い自分ではありますが、それでも多少なりとも度胸を持てるようになったのは、穏やかさだけじゃない、強さを秘めたルルの存在が心の片隅にずっと残っていたからかもしれません。
そういえば、つい先日近所を歩いていたとき、犬を連れて散歩をしている年端もいかない男の子がいました。
先述したくだんの犬と同じなのかは分かりません。
けれども自分には、男の子を見上げるその犬の優しい眼差しが、どこかルルと重なって見えたのでした。

・ゆで卵と長芋のシンプル煮物・かぼちゃの煮物・油揚げとわかめの味噌汁・野沢菜漬け・おにぎり

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