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執筆後記:憧れモデルの終わり、寂しさ指標の始まり(クラシコムジャーナル/「COHINA×北欧、暮らしの道具店」に寄せて)
今回の執筆後記は、クラシコムジャーナルでまとめさせていただいた、アパレルブランド「COHINA」を作る清水葵さんと田中絢子さん、そしてECサイト「北欧、暮らしの道具店」の店長である佐藤友子さんの対談について。
小柄な女性向けのアパレルブランドを作っている若き女性実業家たちと、業界の端々に影響を与えるECサイトの店長が話し合う企画。もともと両者には関係値があったこともあり、とても和やかな雰囲気で対談は進んだ。
自分のブランドを作る、あるいは自分のお店を作ることに自覚的にチャレンジしており、年代も作り上げているものも違えど、共通する部分が見えてきた時に、「あぁ、この対談はうまくいくだろう」と僕は横で聞いていて思った。その共通項は記事にも盛り込んだつもりだ。
そして、本文でカットしたというより、僕が対談を横で聞いていてハッと思ったことなんだけれど、COHINAがInstagramのライブ配信をしながらお客さんと物を作っていく、着たい服についてのディテールを固めていく中で、もしかするとアパレルショップからマネキンは消えてしまうんじゃないかと思った。
マネキンという憧れの終わり
アパレルに限らず、これまでは「ものを売るモデル」というある種のパターンが存在していた。ここでは「憧れモデル」と呼ぶ。優れたモデルさんや、好ましいライフスタイルを送る人の旗印のもとに、その人のようになりたい、あの人が着ているなら素敵、といった憧れを源泉にして物を買ってもらったり、知ってもらったりするやり方だ。
これは非常に強い力で、大きなマーケットを作ってきたと僕は思う。それは「未来はもっとよくなる」と信じてきた日本人の感情にもマッチしたのだろう(このあたりの話は、東浩紀さんの平成論で感じたことだけれど)。
ただ、COHINAの服作りは憧れモデルとはかなり遠いところにあるように感じた。自分たちが真摯に本当に欲しいものを、欲しい人たちと作っていくのは、憧れが源泉なのではなく、もっともっと切実な気持ちの下にあると僕は感じたのだ。あるいは、憧れが優先するのではなく、切実さの先に憧れが載ってくるようなイメージ。
そこには「ぼんやりとした誰か」ではなく、正しく「今この場所に生きている私」と感じられる人へ向けていく変化、あるいはその人に向けた服作りが成り立っているはずだ。
スタイルが良くて、背が高くて、何を着ても似合うマネキンのような人というのは、広くみんなに優れたイメージをぼんやりと植え付ける存在だったとするならば、現代においてマネキンの役割はかなり曖昧になっているんじゃないか、と感じた。
つまり、どうやっても「あの人にはなれない」諦念が、しっかりと働くようになっていき、それぞれにとってのマネキン像が変わっていった。服がもっともきれいに見えることよりも、私にとってどれほど服がきれいに合うか、ということのほうが、切実に生きている。
「身長」、この変えがたい絶望
身長が合わないのは、案外に難しい問題だ。最近、アパレルでも体型については少し幅が出てきているように思う。ぽっちゃりさん向けの洋服ブランドであったり、シンデレラバストといった言葉と共に胸が小さな方のための水着だったり、体型に関する悩みには答えてきたものを目にしたが、実はもっともっと切実だったのは「身長」という変えがたい部分だった。
小柄な方が困っている事実はあれど、そこへ当ててしまうとどうしても全体数が少なくなるので、やはりものを作るならミドル層に対して当てるのが一番いい判断は決して間違いではないはずだ。だけど、それに対して「疎外されている自分はこの世界に対してマッチしていない」と思い詰めている女性の姿が、COHINAのブランドの裏側にはあるそうだ。
僕はかつて、小柄な女性と交際をしている時、彼女が「私にとってのワンピースはロングドレスと同じだ」と話していて、それに対して「そういう捉え方もあるんだね、それなら着られるから大丈夫だね」と笑って見せたことがあった。
でも、あの言葉の裏には「本当は私もワンピースをワンピースらしく着たい」という思いがあったはずなのだ。その当時の僕は分かっていなかったし、たぶんCOHINAのお二人の話を聞くまで、本当にそれを分かっていなかったと思う。
その切実さ、本当に欲しいと思えるようなものが全く世の中に出てこないと感じて絶望するような状況にも立ち会えなかったのだ。自分は身長170センチ、あまりにも平均的なところにいる人間だからかもしれない。想像力も、足りない。
ニッチなる言葉が置き換わる日
そして、それは日本が総中流社会になっていく過程で、最も母数の多いところに何かを合わせていけば相対的に物事が大きくなっていくだろう、という考えのもとだったんじゃないか、とぼんやり思ってもいる。これは今この日本において、あんまり得策ではないやり方なのかもしれない。
インターネットは「本当に欲しい人」のところに情報や物流に対してアプローチできるのが、ある種の革命であった。それは疑うところではないけれども、それが既存のものをただはてはめるだけではなくて、作り手と買い手が一緒になって成し遂げる、その繋がりそのものが実は革命だったのはあり得るんじゃないかと思う。
その点では、ニッチはすでに「ビジネス上の取扱金額」くらいにしか効力を発揮しない言葉になったりするのかもしれない。誰かにとってにニッチは、別の見方をすればマスであり、売上高ではなく「誰かの人生に与える影響度」で物事が図られるようになっても面白い。
ぼんやりとした「誰か」ではなく、正しく「私」に向けていると感じられるもの。そして「私みたいな誰か」へ、それを届けるためのSNS。
ただ、僕にとってSNSはすごく荒れているようにも見えるし、特にTwitterは割と酷いけれど、その裏には「私」を表明できるようになったともいえるわけで、むしろ僕たちは「私」の捉え方を、どう定義するのか、どう考えるのかの瀬戸際にあるんじゃないか。
もっとも、これは『WIRED』がアイデンティティーについてをテーマにしてイベントをしたり、本を作ったりしたことがあり、その影響はかなりあるのを認めるけれども、一体そこから話が進んだのかどうかと思うと、かなり怪しいのではないかというのが、何となくの感覚である。
今、個人が個人としてどう生きるのか、私とは何か、私という存在を私たらしめているのは何か……それらを一つひとつを点検しなければ、仕事も家庭も暮らしも、あるいは着るもの食べるものまで全てにおいて、何かに決められないような、あるいは流されてしまうような感覚を持っている。その在り方そのものに、ビジネスも焦点が当たってきたのだ。
テクノロジーを用いて「先にコミュニティ」を作る
佐藤店長とCOHINAの共通点は他にもあった。
北欧、暮らしの道具店は創業当時、メルマガやウェブサイトを用いて、ある種のコミュニティ的な空間に対してアプローチしてきたという。一方のCOHINAはInstagramを使って、それを実現していた。いずれも手前には「これが欲しい」と思えるカルチャーないし、コミュニティーがあり、そこに対して提供していくスタイルがあった。
つまり、「自分以外にも欲しいと思える人の存在」を可視化し、ある程度の熱量を持ったコミュニティーに対して正しく供給し続けることができれば、それは一つのブランドを作っていく際の礎になるのではないか。
この状況を作りやすいのは、食べ物や消費財といった代替性の効くものではなく、暮らしやアパレルなどの個人の趣味嗜好、「私」を表現しやすいものに近い部分であればあるほど、非常に機能するのかもしれないとも感じた。
「寂しさ」が顧客の指標に
おそらくインターネット発の、いわゆる「大企業」は、もうあまりこれから生まれなくなっていくかもしれない。ただ非常に収益性が高く、人々を幸せにする会社はもっと無数に生まれるかもしれない。その際に基盤になるのは、その会社がなくては寂しいと思わせられるかどうか、なのではないか。
なくなってしまって「困る」のではなくて「寂しい」と思わせられるかどうか。自分にとってブランドが、人生の一部であるかのような感覚。これは僕がクラシコムに在籍している時に聞いた話だからオリジナルではないが、ますますその重要性を感じた。
今回の対談は、歳も離れていて、やり方も違ってきたし、扱ってきたテクノロジーもバラバラだけれども、ただその差があるからこそ、共通点が見つかった時に、それがある種の普遍性を帯びるのがわかって面白かった。
ぜひ、多くの方に読んでいただきたい対談です。何かものを始めたいと考える方、何か自分らしいものを作り、それを本当に好きな人に届けていきたいと考える人がいれば、必ず参考になる点があるはずです。
そもそもなぜ執筆後記をまとめようと思ったのか
僕は「編集後記」がすごく好きだ。もちろん編集者やライターにとっては成果物が全てなんだけれど、それがどうやって産まれたか、何を気をつけていたか、書ききれなかったけどこんな話があるっていうのを読めるのが結構好きなのだ。
「漫画家漫画」と呼べるジャンルも割と好きで、漫画が生まれるまでにこんな苦悩があったとか、漫画制作の現場とかを知りたい。日本橋ヨヲコ先生の『G線上ヘヴンズドア』がバイブルだからかも。ただ、ウェブ記事版で、編集後記や執筆後記があまりないなーと思っていた。ちなみにググったら執筆後記のほうが全然検索が弱そうなので、今回はそっちを採用した。
文字起こしをすると1時間のインタビューで喋る文字量は大体1万5千から2万字程度になる。そこからクライアントあるいはメディアの要望に従って4000なり6000文字なりに縮めていくわけだけれども、落とさざるを得ないエピソードがある。インタビューであれば、やはりお聞きする方が主役になるので、自分の考えをどれぐらい混ぜられるかのも、一つの塩梅になってくる。
そこで、じゃあ、それとは関係なく自分がこの記事を書いたりまとめたりしてどう思ったか、あるいはこの記事を編集してどう思ったか、というコンテンツは、現状のインターネットメディアを取り巻く生態系にあまりないなぁ、と思っていた。
それは今日、この瞬間に、多数の読者を獲得するためのページビューを考えた際の弊害でもあるとは思うんだけれど、良い記事は1ヶ月たって読んだってすごく良いものだし、ちゃんと何かしらの意図を持って、一つ一つは作られているので、どこかに接触点が置いてありさえすれば、読む人にとってものすごく有益になることは可能なのだ。もし、将来的に、もっとnoteやSNSに強い人が始めてくれたら、それは一つの流入先になるかもしれない。
そんな意図があって、この執筆後記を試してみた。幸い、音声入力とその後の調整で、おおまかに現状では1時間半くらいでこのnoteが作成できたので、うまいことできれば、続けられる気もする。
ほんとうはもうひとつ、意図があって、それはインターネットメディアにおいての「アーカイブ」が本当にアーカイブとして機能しているのかという課題についてだけれど、それはまた別の機会に、と思っています。