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おばあちゃんのこと:2.おばあちゃんと整形

 おばあちゃんは終戦の直前、結婚した。二十歳だった。

「時代が時代でしょう? 腕組んで歩いてるだけで、非国民扱いされたんだよ。結婚してるのに」と聞いたとき、結婚するまで会ったこともなかった相手ではあったが、腕を組んで歩こうとするくらいには仲がよくなったのだな、と思ったものだった。

 祖母は結婚の翌年、わたしの父を産んだ。時を同じくしてはじまったのが、夫の浮気だった。なぜ浮気をしていることがわかったのかというと、祖母が八百屋で買い物をしている最中、相手の女性が近づいてきて、「離婚しろ」と迫ってきたからだそうだ。

「なにそれ、ドラマみたい」
 と私は笑った。
「ほんとだね」
 と祖母も笑った。
「怒った?」
 と聞くと、
「怒らないよ。なんとも思わなかったもの」
 と言った。そして、
「でも1回くらい、ほっぺたひっぱたいてやればよかったね」
 と笑った。

 幸せだったのか不幸せだったのかわからない祖母の結婚生活は、ほどなくして終わった。原因は浮気ではない。転勤である。

 夫が北海道へ転勤することになったと告げると、祖母の母親が、「戻ってきなさい」と言ったそうである。祖母の母親、つまり私の曽祖母は、娘の結婚相手をどこからか見繕ってきて無理やり結婚させた張本人である。

「おばあちゃんのおかあさん、勝手だね」
 と言うと、
「昔はそんなもんだったんだよ」
 と祖母は言った。

 曽祖母からすれば、娘が嫁姑問題に悩まされることもなく、義両親の面倒を見る必要もなく、いつまでも自分の手元に置いておけるようにと天涯孤独の男を見つけてきたのに、北海道くんだりまで連れて行くとは何事だ、ということだったらしい。

 もともと結婚なんてしたくなかった祖母は、これ幸いと夫を捨て、子どもを連れて実家に戻った。

 祖母は川口あたりの大正14年生まれにしてはめずらしく、女学校を出ていた。それで離婚後は、息子の面倒を母親に見てもらいながら事務員の仕事に就いたが、すぐに思い知った。

「こんなお給金じゃあ、生きていけない」

 あの時代、女手ひとつで家族を養っていける仕事は、ホステスさんくらいのものだった。銀座に働きに出ていたと聞いたことがあるが、たぶん見栄を張っていたのだと思う。おそらく地元か、せいぜい赤羽あたりじゃなかったろうか。戦前は鋳物工場のお嬢さんとして、何不自由なく暮らしていたのに、失業した父親と専業主婦の母親、就学前の息子との暮らしを水商売で支えた。

 祖母は30歳で自分の店を持った。店はよく繁盛した。時代もよかったのだろうが、努力も怠らなかった。タダでもらった柿をくり抜き、なますを入れてお通しにしたり、お客さんが釣ってきた魚を刺身や天ぷらにしたり、手をかけてタダをお金に変えた。 

 店が流行った理由として、本人は料理の腕に加え、自身の美貌のおかげと思っていたようだ。
「川口小町って言われてモテたんだから」
 とよく言っていた。

 しかしわたしは知っている。祖母が整形していたことを。

 これは祖母から聞いた話ではない。私の母、つまり祖母にとっては嫁が、ご近所さんから聞いた話だ。
 切れ長の一重まぶただった祖母は、ある日、片目に眼帯をして店に現れた。
「着物姿で眼帯しているんだもん、お客さんだってどうしたんだ、って聞くじゃない? ものもらいができちゃって、ってはぐらかしてたけど、今度はもう片方の目に眼帯してサングラスまでかけて出てきたんだって。でね、ひと月くらい経って、眼帯が外れたら、目が二重になってたんだって」

 わたしは、さもありなん、と思った。
 なぜならわたしの父親、つまり祖母の息子は目が一重まぶただったし、曽祖母と曽祖父、つまり祖母の両親も写真で見る限り、一重まぶただった。

 そして祖母はよく、「目がぱっちりしていて、かわいいねぇ」とわたしの容姿をほめた。そして「色が白かったら、もっと美人だったのにねぇ。純子さんに似たんだね、みおの色が黒いのは」とわたしと母をセットでディスった。

 つまり祖母にとって、目が大きいことと色が白いことが、容姿の価値を決めていたことが察せられる。
 祖母は色白だった。目が大きかったらなぁ、と思っていたとしても不思議ではない。
 あのとき、おかあさんがどういうつもりで「おばあちゃん、整形してるんだって」と言ってきたのか。たぶん、ひとの悪口をいうひとらしい悪い顔をして、ほくそ笑みながら言っていたから、わたしにも悪い感情を抱いてほしかったんじゃあるまいか。

 しかし、わたしはそれを聞いたとき、「おばあちゃん、すげえ!」って思ったし、いまとなっては、祖母が誇らしいくらいだ。だって、わたしが生まれる前のことなのだから、1960、70年代だ。あの時代に整形していた女の人って、どのくらい、いたのだろう。

 祖母はわたしが子どものころには、目と眉にアートメイクを施した。刺青みたいなものだと祖母は言った。顔を洗っても、汗をかいても、消えない。そんなことをするのは、いまだって叶姉妹くらいじゃなかろうか。

 店をやめてからも毎日クリームを使ってマッサージしていたし、お化粧もしていた。すきっ歯も直した。

 大人になってからも化粧っ気のないわたしに、
「おばあちゃんに似て美人なんだから、お化粧くらいしなさいよ」
 とよく言っていた。美顔器も2回買ってくれた。

 祖母の美への飽くなき追求は死ぬまで続いた。ほぼ寝たきりになってからも、ベッドサイドに鏡を置いて、暇を見つけては顔にクリームを塗っていた。誰に会うわけでもないのに、身ぎれいにしたがる祖母を小馬鹿にしている様子のヘルパーさんもいたけれど、年齢にしてはしわがなかったし、何より最期までぼけずに生きられたのは、きれいでいたいというあの欲望のおかげだったと思うのだ。

 わたしはおばあちゃんが買ってくれた美顔器を使うこともなく、40歳を過ぎても必要最小限のスキンケアに、すっぴんでうろうろしている。仕事先との打ち合わせくらいメイクしなくちゃいけないなと思っても、不慣れすぎて眉がうまく描けない。老眼がはじまってからはアイメイクも難しくなってきた。

 それでも年齢を重ねたいまだからこそ、きれいにしなくちゃいけないな、と思うようになっている。「そういうの、苦手なんで」と言い訳して、自分に手をかけ、時間をかけることを放棄していると、精神の老化につながる気がするからだ。

 好奇心旺盛でいたいから、自分の内面のみならず、外見もアップデートを怠らずに生きていきたい。祖母のように。

 そう、祖母は好奇心旺盛で、新しもの好きだった。整形もアートメイクも歯の審美治療もその精神の表れだ。

 あまりにも新しもの好きすぎで、家中の家電が常に最新だったわけだが、その話は、また今度。


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