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おばあちゃんのこと:1.おばあちゃんと戦争

 大正14年、といってもぴんとこない人が多いかもしれない。1925年といったほうがわかりやすいか。いずれにしても大昔、うちのおばあちゃんは生まれた。

 祖母が生まれ育った埼玉県川口市は、いまでは東京のベッドタウンとして住みたい町No. 1という調査結果もあるようだが、祖母が子どものころは鋳物の町として知られ、父方は鋳物工場を営んでいた。

 家には住み込みの職人さんとねえやが大勢いて、オルガンと蓄音機があり、休みの日には両親と九つ下の弟と、家族揃ってハイヤーに乗り込み、うなぎを食べに行く。小学校の同級生のうち数人しか上がらなかったという女学校へ通い、お嬢様として何不自由なく人生を謳歌していたころ、戦争がはじまった。

 はじめはどうということもなかったが、そのうち家の敷地内に防空壕がつくられ、空襲警報が鳴ると電気を消して入った。しかしそれはあくまでもポーズというか、川を挟んだ向こうの赤羽には軍需工場があったから空襲でやられていたけれど、川口には何もないから大丈夫だと思っていたそうだ。

 なんだか映画やドキュメンタリーとはずいぶん違っていて、祖母の話はどこか戦争ごっこのようだった。

 こんなこともあった。祖母は干し芋が大好きで、冬になるとよくストーブで炙って食べていた。
「戦争中は芋ばかり食べてたんじゃないの? 芋見たくない、っていう老人の話、読んだよ」
「食べなかなったね。白いお米食べてたね」

 1945年を迎えると、いよいよ戦争に負けそうだということは、新聞やラジオからしか情報を得られなくても、みんなうすうすわかっていたらしい。白いお米を食べていた祖母の家でさえも。

 そして祖母の母親が至ったのは、娘を生娘のまま死なせてはかわいそうだ、という結論だった。結婚しても娘が義母との関係に苦しまなくていいように、どこからか天涯孤独の男を見繕ってきた。

 そうして祖母は、好きじゃないどころか会ったこともない男と結婚した。20歳だった。

「結婚なんてしたくない、って言ったのに」
 祖母は死ぬまでに何度もこのときのことを恨みがましく語った。
 そのたび、
「いやだって言えばよかったじゃん」
 と私が言うと、
「時代がちがうんだよ。親の言うことには逆らえなかったんだから」 
 と祖母は言う。

 あんまり何度も結婚なんてしたくなかった、というものだから、
「もしかして、おばあちゃんにとって、戦争中のいちばんひどい出来事って、結婚?」
 と聞いたことがある。まさか、と思ったが、少し考えたあと、祖母は
「そうだね」
 と言った。そして
「でも、もしあのとき結婚しなかったら、ひでおは生まれなかったし、そうしたらみおちゃんだってこの世にいないんだから、よかったのかもしれないね」
 と自分を納得させるように付け加えた。

 わたしはいつまでも独身で、祖母はそれほど結婚しろだの、ひ孫が見たいだの言わないタイプだったが、たまに「1度くらいは結婚してみたら」なんて言うことがあった。「いやなら、別れちゃえばいいんだし」と。そのたび、「おばあちゃんみたいに?」と茶化したのだけれど、事実、祖母は20歳で結婚し、21歳でわたしの父を産むと、23歳で離婚、それから女手ひとつで生きた。大正生まれなのによくぞまぁ、と思うわけだが、その話はまた今度。


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