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7.おばあちゃんと心中

ある朝、会社に行こうと準備をしていたら、電話が鳴った。いまから20年くらい前だから、家の電話が鳴ることはそれほどおかしなことではなかったけれど、朝早かったこともあり、いぶかしみながら受話器を取った。2歳下の弟からだった。

「お父さん、死にそうみたい」
「はっ? どういうこと?」

夜中、背中が痛いと救急車を呼んで、病院に運ばれたと言う。いつも父が寝ている、もともと母の寝室だった部屋に目を向けた。言われてみれば、いる気配がない。

「救急隊員のひとたち、あんなに大きな声で話してたのに気づかなかったの?」「爆睡してた」
「担架が壁にぶつかったりして、どすどすしてたでしょ」
「知らない」

心臓がどきどきした。

「おばあちゃんと一緒に、すぐ来たほうがいいかも」

支度して、同じアパートの1階でひとり暮らししている祖母宅へ降りた。弟は祖母にも電話をしていたようで、すでに身支度を整えてソファに座っていた。

祖母は乳がんの抗がん剤治療をした後遺症で、足の裏がいつもしびれていた。タクシーを呼ぼうかと聞くと、いいからすぐに行こう、と言う。
歩いて、早歩きして、病院へ向かった。徒歩15分くらいの総合病院だ。

父は意識不明だった。会社に休みの連絡を入れて病室に戻ったら、心臓マッサージが行われていた。それはドラマで見るような激しいものではなく、心臓が止まったら一応そうするルールになっています、とでもいった様子だった。ほどなくして終了した。

祖母は、息子が死んだというのに、静かに椅子に座っていた。嫁が死んだと知ったときには、骨壷を抱いて号泣したのに。

また会社に電話をかけに行った。当時は病室で携帯は使えず、病院内の公衆電話だ。上司に話しているうちに、泣けてきた。嗚咽をあげながら病室へ戻ると、祖母はまだちんと椅子に座っていた。

「おばあちゃん、お父さん死んじゃったよ」
 と泣きじゃくりながら言ったら、
「うん。しょうがないね」
と祖母は言った。

葬式は、どこから聞きつけたのか祖母の友人・知人が集まってきて、やいのやいの祖母を取り囲んで、賑やかだった。わたしは自分が弱っているときにひとに親切にされることが苦手だ。同情や憐憫はいらない、と強がる癖がある。でも祖母は違った。息子を失くしたことで、周りがやさしくしてくれることに甘え、なんなら高揚しているようにも見えた。
葬式が終わってからも祖母は忙しそうだった。毎日のように近所のひとが来ては、元気づけたり、ごはんを食べて行ったりしていた。

四十九日も過ぎて、来客も落ち着いた頃だったろうか。おばあちゃんが言った。

「日出夫は、死んでよかったんだよ。純子さんが死んで、お酒飲んでばっかりいたでしょう?」

妻であるわたしの母を乳がんで亡くしてから、父はお酒を飲んでばかりいた。介護をするといって仕事を辞めてしまっていたから、昼間っから飲んだくれていたのだ。

「死んでよかったんだよ。卒中でも起こしてよれよれになったら、未緒ちゃんがたいへんだもの」

よれよれ、というとき、手を幽霊みたいにぶらぶらさせた。祖母の父親、つまりわたしの曽祖父は、お酒が好きで脳卒中を起こし、認知症を発症して、排泄物で汚れた浴衣のまま、外に出てしまったり、夜中に祖母の名を呼んでは、トイレに起こしたりと、介護がたいへんだったそうだ。
わたしがそんな目に遭わなくてよかった、と言うのである。

「日出夫が夜どっかに飲みに行っちゃうと、おばあちゃん、心配で心配で。雨の中、あっちこっち探しに行ったこともあるんだよ」
母が死んでいなくなってしまった我が家は太陽が消えてなくなった地球のようで、わたしは彼氏の家に入り浸りだった。だから祖母と父がそんなことになっていたなんて知らなかった。

そして祖母は告白したのである。

「日出夫にさ、純子さんがいなくなってそんなに辛いんなら、一緒に死のうって言ったこともあるんだよ。自殺したってわかると未緒ちゃんたちが悲しむから、自動車に乗って海に飛び込めば、事故だと思うでしょう? ねぇ、だから心中しようって言ったんだよ」
「それで、おとうさん、なんだって?」
「なぁにバカなこと言ってるんだよ、って。でもおばあちゃん、何度か言ったことあったよ」

母親にそんなことを言わせるなんて、父は、ほんとうに親不孝者だと思う。
わたしは父の死を、消極的な自殺だと思っている。妻が死んだあと、2年も経たずに逝った父。
おばあちゃんを道連れに死なれるくらいなら、おとうさんだけ突然死してくれて、ほんとよかったよ、まったく。

それなのに、そんな息子なのに、90年以上生きた祖母の人生の中で、いちばん幸せだったのは、一緒にラーメンを食べたことなのだと言う。その話は、また今度。


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