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おばあちゃんと大往生
大正生まれで、昭和、平成と生きた祖母は、一昨年逝った。93歳だった。
戦争中に顔も知らない人と結婚し、戦後、わたしの父を産んで、離婚。水商売をしながら子育て、両親の介護を経て、30代後半からは、ずっとひとり暮らしだった。
最期も、ひとり暮らしをしていた自宅で迎えた。
90歳のときに、何度か入院していた病院の担当医から「もうできることはないから来ないでほしい」と暗に言われたときは愕然としたが、ソーシャルワーカーの助けを借りながら、訪問医療と訪問看護で、家で看取る体制を整えた。
最初は世知辛い病院に怒りすら覚えたけれど、かえってよかったと思う。病院より近いから、頻繁に顔を見られたし、祖母も落ち着いていた。食いしん坊だったから、好きな時間に好きなものを食べられたことが、なによりよかった気がする。
わたしが家庭菜園で作ったきゅうりを「みずみずしいねぇ」と感心しながら食べてくれたこと、たけのこごはんや栗の渋皮煮など季節を感じる料理を作って持って行くと、「意外とまめよねぇ」と驚いていたこと、さくらんぼやアイスやプリンなど、「食べる?」と聞けば、必ず「食べる」と答えたこと、そして「おいしいねぇ」とうれしそうだったこと。
訪問看護師やヘルパーともうまくやっているようだった。若い女性看護師から
「長谷川さんには、毎回、料理のレシピを教わっているんですよ」
と聞いたので
「教えてあげてるんだって」
と祖母に言うと、
「だって、教えてって言うからさ」
とうれしそうにしていたことがあった。
だんだんと、からだの自由が効かなくなり、介護ベッドで寝ていることが多くなった。
ヘルパーには日に3度来てもらった。毎日、朝風呂に入っていた祖母のために、お風呂専門のひとにも来てもらった。
弟は老人ホームに入れたほうがいいんじゃないか、と言った。よくよく聞いてみると、苦しみながら死んでいくところを見たくない、家でだれもいない時間に最期を迎えた祖母の最初の発見者になりたくない、というのが主な理由のようだった。わたしたちきょうだいは、両親を看取っている。弟はわたしよりうんと繊細だから、ひとが死ぬことにトラウマを抱えているようだった。
ソーシャルワーカーは、はっきりものをいうひとだった。祖母のように長くひとり暮らしをしてきたひとには、老人ホームは辛かろう。なにより、いまはヘルパーが何でも希望を叶えているけれど、老人ホームに行ったら、お姫様のようにはいかない、と。
訪問医師も、「老人ホームに入ったとしても、だれにも立ち会ってもらえずに最期を迎えることはある。自宅にいれば家族が看取れる可能性が高いけれど、老人ホームでは場所によっては間に合わないこともある。痛みなどが出た場合には、きちんとコントロールするから」と言ってくれて、弟はようやく納得した。
祖母はずっと、「みおちゃんたちに迷惑かけられないから、年とったら老人ホームに入らなくちゃね」と言っていた。このときも、
「迷惑かけられないから、老人ホームに入らなくちゃね」
と言った。
「おばあちゃん、おばあちゃんはもうおばあちゃんなんだから、わがまま言っていいんだよ。家にいたいんだったら、家にいな。お医者さんも看護師さんもヘルパーさんも、そのために来てくれてるんだよ。どうする? 老人ホームに入る? 家にいる? 家にいる?」
祖母は、少し涙ぐみながら、家にいる?の問いに、ちいさくうなずいた。
亡くなる前の1年間くらいだろうか。ほぼ寝たきりになった。最初のころは気の毒だった。頭ははっきりしているから、下の世話を恥ずかしがった。自分でトイレに行こうとして、途中で倒れていたという連絡を受けたこともあった。
「もしも娘がいたら、面倒見てくれたかしら」
とこぼす祖母に、ヘルパーは
「身内よりね、お金払ってプロにやってもらったほうがいいに決まってるじゃない」
と言ってくれた。
朝からステーキやフカヒレの姿煮を食べたがった祖母は、少しずつ、あれ食べたい、これ食べたいと言わなくなった。
「3日くらい前から、食事を摂れなくなっています」
ソーシャルワーカーからのメッセージに、いよいよ、と覚悟した。無職だったからすぐに祖母宅へ行くと、ヘルパーと訪問医師と訪問看護師がきていた。弟も呼んだほうがいいと言われて、会社にいる弟にメッセージを送った。
ヘルパーが肩に手をおいて、
「おかあさん、ありがとうね」
と言って、帰っていった。
医師が
「あと1時間くらいだと思います」
と言って、帰っていった。
祖母はもう意識はなく、ぜいぜいと息をしていたけれど、看護師が
「こういう息をしていると苦しそうに見えるかもしれませんが、苦しくないと言われています。あとでまた来ます」
と言って、帰っていった。
弟が帰ってくるまでのほんの少しの時間、ふたりきりだった。
「お世話になりました。ありがとうございました」
声に出して言った。両親には言えなかったことを祖母には言えた。
弟が帰宅して、看護師が戻ってきて、祖母は逝った。
植物が枯れるように、静かで、自然だった。
わたしは泣かなかった。弟は少し泣いた。看護師は
「長くお世話させていただいていたので」
と、目を真っ赤にして泣いた。若い男性で、祖母のお気に入りだった。
93歳ともなると、友だちはみんなあっちにいて、こっちにはいない。葬儀は身内だけで済ませた。お骨になった祖母は歯がりっぱで、さすが食いしん坊だな、と思った。
たくさん残ったお骨を拾いながら、ほぼ寝たきりで過ごした祖母の最後の1年って、いったい何だったんだろう、とふと思った。
からだの自由が効かなくても、おいしいものを食べたり、おしゃべりしたりしたことは、少しは楽しみだったろうか。そんなことを考えながら、ようやく気づいた。
あの時間は、わたしたち、残される者のための時間だったのだ、と。
祖母がゆっくりと旅立ってくれたおかげで、心の準備がしっかりできた。だから、落ち着いて、見送ることができた。
おばあちゃんのことを自由奔放なひとだと思っていたけれど、わたしはちっともわかっていなかった。死ぬときまで、ひとのために生きるようなひとだったのだ。
つい先日、長谷川ハイツの住人が結婚を機に引っ越すことになり、挨拶に来た。
「大家さんには、すごくお世話になったんです。母に乳がんが見つかって、手術を嫌がっているんですと話したら、うちに連れていらっしゃいよ、って言ってくれて、長谷川さんが乳がんの手術後を見せてくれて、ほら、なんでもないでしょ、って。それでうちの母は手術する決心がついて、いまでも生きているのは、長谷川さんのおかげです」
初耳だった。
わたしには子どもがいないから、「おばあちゃんはこんなひとだったんだよ」と言う相手がいない。わたしが忘れちゃったり、死んじゃったりしたら、祖母はいなかったことになるのかな、と思うとさみしい気がして、書き残しておこうと思ったことが、この連載をはじめたきっかけだった。
でも、わたしの知らないところで祖母の思い出は生き続けていることを知った。すごくうれしくて、ものすごく誇らしい気がした。
(おしまい)