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山で漆を塗って

また雪虫…。
そう思って窓の外に目を凝らすと
本物の細かな雪がちらちらと舞い始めた。
地上に降り立つひと粒の結晶を見届けるような、
雪が降り始めるこの一瞬が好きだ。
きっと積もるほどではない。
展示期間中の休日。
昨日から気温がガクンと下がった。

明日からは後半の3日間が始まる。
今回宮下さんの展示DMには漆作家ではなく、
漆工・宮下智吉 第10回「家族の漆」と記した。
これは宮下さんからの申し出があったから。
作家・職人・工人…と、作り手の考えによるものなのか、
使い手側からによるものなのか、肩書としての呼び名は様々だ。

宮下さんに漆工とは?と訊ねると、

「山で漆を塗っているおじさんです」

という答えが返ってきて思わず笑ってしまった。
笑ってしまったものの、なんだか健全で
偉そうなところがなくて、宮下さんらしくて
とてもいいなとも思った。

お米農家の方がお米を育てるように、
パン屋さんが毎日パンをこねるように、
自分は松本の山の中で毎日漆を塗っている。
それがあたり前であるように。
「作家」としてのものづくりというのでもなく、
「職人」のように同じものを同じ精度でたくさん
作り続けるというのでもない。
でも漆を、そして器をつくる工人として手を動かす
漆工という存在でありたいと。

「家族の漆」というかたちではじめた宮下さんの展示は
今回で10年目となる。それ以前は「ごはんのおいしい漆の器」
というタイトルで個展を開催していたのでトータルすると
年数としてはずいぶん経っているのだが、それでも私自身は
毎年学びがあるというか、考えさせられることが今でもいくつもある。
その度に何年経とうがそれが何回目になろうが、
わかった気になんかなっちゃいけないなと自分を戒めている。
「わかっちゃいないということがわかった」
それが正しいのかもしれない。

今年の漆の器たちの中には、これまでも定番的に
作り続けてきたお皿やお盆が並んでいる。
確かにそれらは定番の顔ぶれなのだが、何かが違う。
どこがどうとはっきり「ここが」というものでは
ないのだけれど。

それに気づいたのは毎回行う閉店作業でのこと。
硬く絞った手拭いで漆の器をひとつひとつ拭いてく。
それは実際に使って洗って拭いてという生活の
作業の一部とも重なる。
そこではじめてその違いにハッとしたのだ。
ただ手に持っただけでは気づけなかったごくごくわずかなこと。
気づかれなかったとしてもそれは困ることでもない
さり気なさ。
「山で漆を塗っているおじさん」の手から生まれた漆は
どこまでもどこまでもやさしい。

わかった気になんかならずに、こうして幾度も
ハッとしていたいと思う。