vol.11「三匹獅子」小暑 7/7〜7/21
お祭りと聞くと、焼きそばやたこ焼きのソースの香り、大きな氷の上にキラキラと並ぶあんず飴、他にも金魚すくいの水槽のまわりに子供たちがしゃがんでいる景色や的を狙ってパーンと放たれる射的の銃の音、ゆらゆらと明かりを灯す裸電球。そんな屋台の風景が頭に浮かぶ。確かにそれもお祭りの一部かもしれないけれど、三春町のお祭りはそうではなかった。
三春に引越しをして数ヶ月経った頃、いつものようにベニマルの掲示板に貼られた手書きのポスターで知った「田村大元神社礼大祭」。田村大元神社は、現在の家に暮らす前に住んでいた集合住宅がある字新町の氏神様にあたる。高台にあり、春には桜が花をほころばせ、緑の季節にはケヤキの大木に葉が生い茂り、秋には鮮やかなイチョウの黄色が境内を覆う。門にはぷっくりとした姿の一対の金剛力士像。一礼をして一歩境内に入ると不思議とシンと静かな心地がする。
7月に入ってお祭りが近づくと、字新町の集会所にはお祭りの大きなのぼりがはためき、夕暮れ過ぎからお祭りに向けて練習が始まる。笛に合わせて子供たちが叩く太鼓の音が界隈に響き、初めて耳にする独特のリズムに、なんだかこちらまでソワソワとしてしまう。お祭りの当日は、夫と二人して早めに仕事を切り上げ、いそいそと神社へ向かった。
「今日はお祭りだから焼きそばやたこ焼きが食べられるね」
お祭り=屋台。子どもの頃の記憶がそうさせるのか、邪念だらけである。が、神社が近づいてきてもソースの香りは漂ってこないし、屋台らしき明かりも見当たらない。気持ちが少ししぼみかけたとき、遠くの方で笛や太鼓の音が聞こえたきたので音のする方へ行ってみることにした。神社の真下の信号を右手に入り、おたりまんじゅうの「昭進堂」さんがあるゆるやかな坂道を登っていくと、向こうの方からちょうど長獅子がこちらへ向かって降りてくるところだった。長獅子とは獅子の頭を先頭に、10人の大人の男性が中に入って舞うのだが、なんとも荒々しく勢いがあり、初めて見たときには圧倒されて言葉が出なかった。獅子舞といえば、いわゆるお正月の和やかな姿しか知らなかったのだからなおさらの事、長獅子以外にも青天狗や白天狗、子どもたちが舞う三匹獅子やその他にも行列は続き、まるで物語の世界に迷い込んでしまったかのような光景を目にして、空腹や蚊の襲撃に遭っていることなど忘れ、ポカンと呆気に取られたように私たちはその場に立ちつくしていた。巡行の途中途中でも長獅子は荒々しい舞を見せ、本堂へ続く石段を威勢の良い声を上げながら駆け登っていく様は、雲の上まで昇る龍のようでもあり、まさに邪を払う聖獣といった力強さだった。見物をしていると、私たちの隣にいた方が話かけて下さった。
「観光でいらしたんですか?」
「いえ。最近すぐ近くに引っ越してきたばかりなんです」
「そうでしたか。うちの息子が三匹獅子を舞っているんですよ」
宮入りをし、先ほどの荒々しい長獅子は本堂の中へと吸い込まれるように姿を消し、長獅子の列に続いていた三匹獅子の舞が始まる。獅子の面に鳥の羽をタテガミのように見立てたものを被り、太鼓を叩きながら舞う三匹獅子。この大役は誰もができるわけではなく、この地域の5~6年生の小学生、しかも男の子しかできないこと、そして昔に比べて子どもが減っているので、三匹獅子ができる子が少なくて苦労していることなど、先ほどの三匹獅子のお母さんからお話を伺った。
3人の素早い動きと不思議な太鼓のリズムには、ただただ見入ってしまう。たとえるなら映画の「もののけ姫」の世界のように、どこか時空を超えてしまったような、人が入り込んではいけない領域に、この日だけ特別に許されて佇んでいるような。境内に灯る提灯の明かりや、そこにいる人たちが三匹獅子の舞を静かに見守る様子もどこか夢の中の出来事のような気がしてしまう。それでも舞が終わると、ふわっと何かが解かれたように、もとの世界へと空気が戻っていく。三匹獅子たちもいつもの小学生の男の子たちに戻って、お母さんたちのところへと駆け寄って行った。
この土地で絶えること無くおそらく何百年と受け継がれてきたお祭り。三匹獅子のお役目を卒業して大人になると、今度は長獅子の一員としてお祭りに参加することになるのでしょう。観光のためでもなく、そこで生まれ暮らす人のためにあるお祭り。本来、それがあたり前のことなんだろうけれど、こうして目の当たりにしたことに私たちは高揚していた。もう屋台も空腹もどこかへ消えてしまった。
「長獅子の背中についているたてがみ(和紙でできている)が、舞っている最中に落ちることがあるからそれを拾って持っているとお守りになるんですよ」
これも三匹獅子のお母さんから教えて頂いたこと。帰り道、地面に落ちて汚れていたたてがみを拾い上げ、家に帰って泥などを水できれいに洗い流すと、邪を払う清らかな白さが現れた。