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vol.37 立秋「蝉」 8/7〜8/22


 朝からジリジリと強い陽射しが照りつける。気づけば家の軒下や木戸には、セミの抜け殻があちこちにしがみついている。いつだったか、セミの羽化を自宅の庭先で見たことがある。子供の頃はテレビや図鑑でしか見たことがなかったというのに、生まれて何十年も経って三春のこの土地に来て、初めて目にするとは思いもしなかった。
 その日は朝、仕事へ行くために表へ出ると、玄関先でまさに羽化が始まるところだった。白緑(はくりょく)と言ったら良いのか、白みを帯びた淡く美しい緑色をした羽のセミが、地上の日の光の下に姿を見せたその瞬間に立ち会えたことは、大袈裟なようだけれど感動的だった。
 陽が高くなってくると、ジィージィーと鳴くアブラゼミと、ミンミンゼミのミーンミンミンジィーという鳴き声の大合唱。あの密やかに白光する、淡い緑色のセミの面影などなくなった別の生き物のような真夏の音。セミの大合唱は「蝉時雨」の言葉の通り、日中は降るように鳴く声が聞こえ、夕暮れ時にはバトンを受け取ったかのように、ヒグラシが鳴くカナカナカナという声が涼やかに辺りに響く。眩しい陽射しの中、青空にムクムクと姿を表す入道雲や、グングンと勢いよく育つ雑草たち、野菜の色まで鮮やかな夏は、音だけではなくなんだかとても賑やかだ。眉間にしわ寄せて暑い暑いとつい口に出してしまうけれど、私は自然が生み出すこの賑やかな夏が案外と嫌いではない。そのことをこの土地での暮らしで気づかされたのだ。
 そんな賑やかさとは一見対照的なのが夏の滝桜の風景だ。滝桜といえば花の季節と思われがちだし、もちろんその通りではあるのだけれど、夏は夏で素晴らしく、毎年一度は訪れたいと思っている。人出の多い春先とはまるで違い、夏場の滝桜周辺は昼間でもほとんどひと気が無くシンとしているが、そうかといってそこに寂しさはない。葉がワサワサと生い茂る千年を超えた大木の袂まで歩いて行くと、うねるような生命力溢れる幹や枝が今にも動き出しそうで、ゾゾゾと鳥肌が立つほどの神々しささえ感じてしまう。初めてその姿を目にしたときは、木を見上げながら圧倒されてポカ〜ンとしてしまった。まるでそこだけ音が消えてしまった、静かな異空間のような空気にすっぽりと包まれているみたいだった。どこか神様のような滝桜と対峙し、会話を交わすようになんとはなしに手を合わせ、こちらも静かな心地になっていくと、それまで気にもなっていなかったセミの鳴き声が一斉に耳に届くのだった。セミの他には、せいぜい鳥の鳴き声が時折聞こえてくるくらい。賑やかといえばそう言えるし、その自然の賑やかさ以外の音を、間違って自分が立ててしまわないように、そっと静かにその場を後にした。
 滝桜までは家から車でほんの15分ほどの場所だというのに、あの木の下では日常とは違う空気が流れているように感じる。私の中ではそれは夏の風景に限ったこと。たまにあのワサワサの緑に包まれた姿を思い浮かべると、セミの鳴き声はどこかに消えて、静けさの印象だけが蘇る。一方、我が家の庭では、相変わらずセミが知らぬ間に羽化をしているようで、抜け殻をよく見かける。羽化するのはおそらくまだひんやりとした風がそよぐ早朝。鳥の鳴き声も聞こえてこない静かな時間だ。そのうち何かが動き出すように、鳥が先かセミが先か、一日が始まるように音も少しずつ動き出す。
 勢いを増して庭を覆うように育つ雑草の草取りは、なるべく午前中の早い時間か暑さのピークを過ぎた夕暮れ時。帽子に手袋、虫除けスプレーもしてさらに帽子の上からは虫除けネットを被り完全防備。暑さ対策には、保冷剤を手ぬぐいで包んだものを首に巻いて、いざ作業へと取り掛かる。「今日も朝からセミの鳴き声が凄いこと」などと思っていても、黙々と草取りに集中し始めると、そんなことも忘れてしまう。そのうちシャツが絞れるほどの汗をかいたら、作業もそろそろ終わりの合図。すると上手くできた音響効果のように、セミの鳴き声も戻ってくるように耳に届くのだ。
 日中にどんなに夏空が広がっていても陽が傾きかけた頃、急に黒い雨雲がやってきて、雷が鳴り始める頃にはスーッと涼しい風が吹き、セミの声もピタリと止まる。来るぞ、来るぞと思うや否や、ザーッと遠くが白く霞むほどの夕立が降る。まるでアジアのスコールみたいに、それが決まりごとかのような日が増えている。そのうち雲の合間から太陽が顔をのぞかせ、光が降り注ぎ始めているというのに、雨はまだ降り続けていることもある。集中豪雨の被害を考えると悠長でもいられないのだけれど、雨が陽に照らされてキラキラと輝く光の粒のようで、その美しさにハッとする。その雨が上がったかと思えば、空には大きな虹が架かり、セミの鳴き声が再び聞こえ始める。もうその頃にはヒグラシの鳴き声だろうか。夕餉の食卓に並ぶのは、ピカピカと鮮やかな夏野菜や季節の桃。急き立てられるように毎日食すそれらは、真夏の太陽をたっぷり浴びた季節の恵み。わっしわっしと食べながら、体の中には光が満ちていく。こうして我が家の夏の1日は、大した事件も出来事も起きずに坦々としたものだけれど、自然の風景だけが賑やかに忙しなく、ドラマティックに過ぎていく。
 8月もお盆を過ぎる頃にはヒグラシの声に混じって、リーンリーンと秋の虫の声が聞こえたりする。空の色も少しずつ変化して、入道雲に代わり筋雲や羊雲が姿を見せると、その美しさも十分に知りながら途端に寂しくなってしまう。まだもう少し、あともう少しだけこの賑やかさの中に身を置いていたい。