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【劇評266】軋む身体が、舞台を駆け抜ける。マームとジプシーの『コクーン』が、帰ってきた。5枚。

 二○一三年に初演された『コクーン』が帰ってきた。

 今日マチ子原作、藤田貴大作・演出のこの作品は、藤田の方法論に、今日マチ子の世界観が加わって、心の傷跡のありかを、観客それぞれが確かめる舞台となった。
 二○二○年の夏、六都市をめぐるツアーが予定されていたが、コロナウイルスの影響によって、延期されていた。ふたたび、この作品と向かい合うことが出来て、嬉しく思っている。

 終戦前のとある島が舞台である。
 寄宿舎のある女学校に暮らす少女達が、戦況が悪化するにつれて、動員令を受け、看護隊として戦争の前線に組み入れられていく。
 補給がとだえ、食料や水も、満足に行き渡らないなか、少女達は、お互いをいたわりつつ、生き延びることを強いられていく。

 いうまでもなく、この設定は、第二次世界大戦下の沖縄、ひめゆり隊を下敷きにしている。
 今回の上演では、東京芸術劇場のハイスペックな舞台機構と広い舞台空間を、少女達の疾走によって、埋め尽くしていく。


 第一章は「學校」とのクレジットが映し出される。ここでは、まだ平穏な時代、先生に絹糸を生み出す繭(コクーン)についての講義を受けている様子が、紗幕の向こうに映し出されている。

 弾けるような若さをかかえた少女達の日常が綴られていく。若さはときに野蛮であり、諍いも絶えないがエネルギーに満ちている。舞台の背面に映し出される映像は、マングローブや海など沖縄の自然を映した動画である。

 原田郁子の音楽は、舞台奥のミュージシャンによってライブで演奏される。ここにはかりそめの幸福感があるが、彼女たちの日常は、決して全面には出てこない。ふたりの男性が持つ木枠だけの壁、三人の女性が持つ木枠だけの窓が、せわしなく動いて、少女達の動きが前面に出ることがないように、舞台面を執拗に切断していくのだった。

 なぜ、これほどまでに、壁や窓が動き続けるのだろうか。私は最初いぶかしく思った。サンやマユ、マリやエツ子、タマキやナツコ先生の物語が、まるで断片化されているかのようだ。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。