【劇評267】 ひとの死でさえも、日常を終わらせることはできない。やしゃご『きゃんと、すたんどみー、なう。』の深い溝。4枚
始まりがなく、終わりもない。
私たちの日常は、昼夜の区別はあっても、背負った運命にあらがうこともかなわない。出口のない毎日が、シジフォスの神話のように、のしかかってくる。
やしゃごの『きゃんと、すたんどみー、なう。』(伊藤毅作・演出)は、タイトルのように「もう耐えがたい」状況に向かい合う人間たちを描いている。
ロビーから客席に入ると、すでにふたりの俳優が芝居をしている。
古い日本家屋で、手前には畳敷きの座敷があり、上手下手と上手奥には、廊下がしつらられている。
中庭に向かって、お揃いポロシャツを着た男女が、客席に背を向けている。ふんだんな光が差し込み、庭を囲む屛に蔦がからまる。なにげない会話が交わされるうちに、ふたりは仕事でこの家を訪れたのだが、なんらかの理由で、仕事が中断されているとわかる。上手手前に寝転んでいた女幸子(赤刎千久子)が起き上がるあたりから、ドラマが動き出す。
やがて、父母をすでに亡くした三人姉妹、雪乃(豊田可奈子)、月遙(とみやまあゆみ)、花澄(緑川史絵)が、物語の中心にいるとわかる。
月遙は、大越(辻響平)と結婚したために、今日、引っ越しをしてこの家を出て行く。ポロシャツのふたり、山本由香里(清水緑)と綿引慎也(海老根理)は、業者で、夏の日だまりのなか、茶菓の接待を受けながら、待ちぼうけをくらっているとわかってくる。
この作品の核心には、障害者とその家族の問題がすえられている。雪乃の面倒を見てきた月遙は、この家を去る。雪乃と花澄が残される。ちょっとしたきっかけで、手が付けられなくなる雪乃を、花澄ひとりで受け止めることができるのか。花澄と月遙の間にも、緊張が走っている。
さらに、同じ障害者施設に通っている正志(岡野康弘)が登場したあたりから、この場がカオスに向かって行く。雪乃と正志は、愛し合っていて、結婚したいと主張する。現実には、家族に面倒を見てもらわなければ生活出来ないふたりは、やすやすとは結婚できない。周囲が困惑し、説得を試みるが、ふたりは意志を貫こうとする。
ここで描かれるのは、愛の純粋さである。
ふたりのひたむきな思いが、舞台を圧していく。世間の常識では、解決できない問題が持ち上がったときに、私たちはどう向かい合うのかが、強く問われている。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。