【劇評287】新年を明るく祝う、新春浅草歌舞伎。松也、歌昇、種之助、莟玉。
五年の歳月は、歌舞伎役者を大きく育てる。
歌昇、種之助の兄弟が、自前の勉強会「双蝶会」で、『吃又』を上演したのは、二○一七年の八月。三年ぶりに復活した新春浅草歌舞伎で『傾城反魂香(吃又)』を出した。
吃音が故に、後輩の修理之助(莟玉)からも出世で抜かれ、置いて行かれる。才能に恵まれず、世間渡りも巧くはない又兵衛(歌昇)、おとく(種之助)の夫婦は、若いがゆえに、このもどかしさに耐えかねる。
自分がこうありたいというイメージと、他人からの評価が一致しないのが若い時代だとすれば、歌昇、種之助のコンビは、若さがゆえの、切なさ、哀しさが、実によく出ている。勉強会をしたことで、一度身についた教えは、忘れられるものではない。
芸に揺らぎがあってはならぬ。ここでお師匠番を果たしているのは、竹本葵太夫である。
晩年の播磨屋吉右衛門から全幅の信頼をえた太夫が、ここでは、自信をつけてきた歌昇と種之助が自在になりすぎるのを収めている。
義太夫狂言のイキ、肚におとす型があってこその古典である。若い二人の現代劇にならぬように、かせをあたえているかに見える。
歌昇は、一世一代の絵を描き上げ、奇瑞が起こったとは知らずに、自死を選ぼうと幽鬼のような気配を出すところがいい。
種之助は、出のしゃべくりが軽やか。また、終幕「覚悟しやんせ今生の」と、この世を断念する件りに深さがあった。歌昇が舞って、種之助が小鼓を打つ呼吸がよく、なにより観客を愉しませる。
もちろん、すべてが完璧とはいえないが、年輪を重ねるうちに、ふたりの当たり芸となる予感がある。
土佐将監光信は吉之丞、北の方は歌女之丞。ベテランにも活躍の場があり、さすがに余裕を感じさせ、しかも偉くつくりすぎず、歌昇、種之助と対になって寸法がいい。
松也の雅楽之助は、光信に注進するところで、台詞を歌ってしまっている。身体が重く見えるのはなぜか。ここはひとつ、勉強のしどころである。
さて、舞台は一転して、お正月らしく『連獅子』を明るく出した。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。