〇〇みという言葉

今でこそなんの躊躇いもなく連発するが、この「〇〇み」という言葉が使われるようになった当初、ひどく嫌悪した。

単に新しい文化の受け入れを脳が拒否したというだけの話だろう。敢えて言語化を試みるなら、「み、なんて曖昧な表現でお茶を濁して読む人の共感性に丸投げした文章を書くんじゃない。知性をもって説明しろ!」ということだろうか。当時も今もかわいいかっこいい好きを繰り返すしか推しを表現できない人間のくせに大きく出たものだ。

だが、そんな捻くれた私がある時、どうしてもこれは〇〇みじゃないと伝えられない!と思ったらしい。

記憶が曖昧、かつ該当ツイートをいくら遡っても見つけられなかった。

が、とにもかくにも苦肉の手段で私は〇〇みを使ったという記憶がある。そしてこのツイートは止むに止まれず〇〇みを使ったのであり私は〇〇みを普段から使うわけではないんですよ、という意思表示ツイートもツリーにぶら下げた記憶がある。

その当時良くして頂いていたフォロワーさんが、私のそのツイートの後に〇〇みに関するツイートをした。

いわゆるエアリプであったと認識しているが、たまたま機を同じくして同じ話題が呟かれただけかもしれない。

申し訳ないことにこちらの方のツイートも遡って見つけることはできなかった。

朧げな記憶によれば、フォロワーさんは〇〇みという言葉を使う人は言葉を味覚のように表現しているのではないかというようなことを言っていた。と思う。

記憶が曖昧なくせにと我ながら思うが、この見解に目から鱗が落ちた。苦味、甘味。今検索して知ったがこの味というのは当て字で痛みなどと同じく送り仮名で「み」とつけられるのが本来のようだ。

痛み厚み重みにはつかない味の字こそ〇〇みの正体なのでは?となんとなーくその時思ったのだ。

〇〇い、〇〇さ、では伝えきれない。ただここに生まれた感嘆を噛み締める言葉。記憶がリンクして似たような言葉を思い出した。

この説明できない、けど伝えたい思いを表現した言葉を高校の古文で習った。

「うらさびしい」

ただ寂しいのではない、切実にここにあり、だけど説明できない寂しさだと先生は言い、なんて美しい日本語なんだと黒板を叩いた。

1000年を超える昔から伝わってきた「うら〇〇」と誰もがインターネットで胸の内を綴るなか生まれた「〇〇み」

うまく説明できない。でもわかってほしい。そんな痛切な思いを誰かの共感性へ導くツール。

それが〇〇みの本質なのかもしれない。



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