自分の遺伝子のゆくえは自分が《自由に》決める...べきか?
さすが新庄剛志さんです。
《夫婦の姓という人工的制度》の議論などより、はるか高〜いところを、軽やかに飛び越えてみせました。
新庄さん「おれは結婚しないけど遺伝子をあげたい、おれの身体能力は社会に貢献」
日本でもちょっと前から、米欧などに「優秀な遺伝子」を買いに行く方、いらっしゃいますね。
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数十年前までは、遺伝子の持ち主自身であっても、自分の遺伝子のゆくえを《自由に》決めることは一般的ではありませんでした。「家」「ムラ」「世間」がまあいいんじゃないのと認めた相手とでなければ、結婚はしにくかった。そして結婚していなければ、子供はもちにくかった。
その制約のもとで、連綿と遺伝子が受け継がれ、現代のわれわれに至っているわけです。
一方で、敗戦をきっかけに上記のような制約は封建的→軍国主義の温床として否定され、憲法でも「結婚は両性の合意のみで」と決められた。
人間は、自分が《自由に》選んだパートナーとともに、自分の遺伝子の行方を《自由に》決められるようになった......少なくとも、たてまえでは。
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さて結婚にかぎらず一般的に、《自由》は現代のキーコンセプトであります。
その《自由》、下記の2つが前提となっています。よね?
1. 判断能力
自分で判断できる「能力がある」こと。そのための教育訓練を十分に受けられること。
2. 責任能力
自分の自由な判断の結果にコミットする(責任を取る)義務を果たせること。
さてさて、「自由憲法」から70年超が経過したこんにち。
われわれの社会は封建的なムラから脱皮して、「判断能力」「責任能力」の二つを兼ね備えたおとなたちが大多数を占めるという、実にすばらしい社会になった、
...のだろうか?
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テクノロジーは発達し、
流通するお金の量も増えたが、
人間はあいも変わらず、ただ性弱なままなのではないか?
《自由に》決めて・生きる。そのための能力というかチカラを、身につけた(身につけつつある)と言えるのだろうか?
《自由》がほしくて戦っている方々にはほんとうに申し訳ないけれど、《自由》が有り余ると持て余してしまう、というのもひとのサガのようでございます。
「できれば、ほとんどのことは、他人に《しかるべく》決めといてもらいたい。なんでも自分で《自由に選択》するとか、疲れたし、もともとむりだ」
て思っているひと、少なくないのでは?
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ということで、《遺伝子を残す自由》の話にもどりますと、
「むかしの『親が決めたお見合い結婚』、けっきょくあれが、いちばん合理的だった」
って考える方、これから増えるかもしれませんね。
自分の能力と責任において《自由に》恋愛しても、長くは続かない(続けられない)例を、みんなさんざん見てますもんね。
なお、、、インターネット普及前夜の1992年に大ベストセラーとなった『愛はなぜ終わるのか』(ヘレン・フィッシャーなど)によりますと、愛は4年で終わるのが自然であり、不倫・離婚・再婚をくりかえすことは生物学的にみると当然である、とのことです。
自分は《自由な恋愛》によって自分の遺伝子の行方を自分で決めるのだ!とイキっている方々、この本もいちど読んでおくといいかもですね。
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ああ、もう一冊、さらに古典ですが不朽の名著『自由からの逃走 』エーリッヒ・フロム。
人間は《自由》には長くは耐えられず、支配されることを望む。それが、ワイマール共和国の《自由》に疲れたドイツ人がナチスを熱狂的に支持してしまうに至った理由のひとつだという。 https://www.amazon.co.jp/dp/4488006515/ref=cm_sw_r_cp_api_fabc_Ck-3FbHDH8RRR
そして締めくくりに、
「自由な選択ができる能力と責任感がある両性による結婚」と、「テクノロジー(ネット)」の、とっても素敵なマリアージュ。
その成果のひとつが、これデス。もとい、これです。
『だんなデスノート』
夫に今すぐ死んで欲しい。毎日思っている。お願いだから死んで。世の中には、お前より素晴らしい人達が生きられないとか、不公平だ。
https://danna-shine.com/