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【小説】ごはん日和

ブレンド米10kg、5000円超。

スーパーのお米売り場を目の前にして、常識が覆った。

これまで炭水化物は、たんぱく質より安価だった。買い物で培った食べ物の価値観。それは、神の慈悲か奇跡かと信じていた。貧しくても今日を生きる動物にとって、生きていくエネルギー。それが炭水化物だ。もちろん、たんぱく質がいらないとは言わないんだ。三大栄養素全てがバランスよくあって、ついでに言うと適度な運動があって、それでやっと健康は成り立つ。だから、今話しているのは、単純に値段だけの話だ。

じっと、手元のスマホと見比べる。
見える電子マネーの額が、懐の寂しさを無慈悲に示す。
仕方ない。清水の舞台から飛び降りるしかない。

「何をためらっているのだ。さっさと運ぶぞ」

レジカートに10kgのお米を軽々と放り込み、バーコードをチェックする隣の大男。
こいつが僕のルームメイトの柳沢とおる。

「誰かさんが、毎食おかわり飯を食うからこうなるんだ」

「そうか、その誰かさんはさぞかし大物だな。据え膳くらわば、男の恥というからな」

「使い方がおかしいだろ。ことわざに謝れ」

とおるを連れてきたのは、他でもない。買い出しの荷物持ちのためだ。つまり、最初から米を買う前提で僕は、このスーパーにやってきた。当然、買った10キロのお米は、こいつに担がせる。

そして木曜日は、お米の割引日。
1割は安い、、、万策を尽くしたはずだったのに。

「おーい、智弘くーん、とおるくーん」

見れば、メガネをはめた黒髪ショートの女性が行列に並んでいる。
歳のせいか、僕も近眼が進んで、新聞の文字も霞んできた。とはいえ、それがアカリちゃんであることくらいはすぐにわかった。

有明アカリちゃん。僕らの部屋のお隣さんだ。

「ふふーん? もしかして、君らも3割引のチーズケーキを狙っていたのかなぁ?」

「チーズケーキ?」

反応するのも無理はない。僕ととおるは、スイーツを買って食べることは稀なのだ。

「うむ。俺も食いたくなったぞ。チーズケーキ」

「はいはい。わかったわかった」

ため息をついて、スイーツ売り場をスルーする。

「あれ?並ばないの?」

行列のできた最後尾で、目を丸くする。「美味しいんだよ?ここのチーズケーキ」

「300円を超えるお菓子は、買わないことにしているんだ。それに自分で作った方がうまい」

僕ら2人はうなづきあった。

沈黙が流れた。アカリちゃんの意外そうな顔。

「え?嘘でしょ?」

「こんなこと嘘ついても仕方ないよ」と僕は力なく笑う。

「へえ。いいなぁ。いいなぁ。智弘くんのケーキ食べたいなぁ」

アカリちゃんは、見かけ通りの女性ではない。魅力的だし、かわいいし、実家は良家のお嬢様で、ただ少しばかり、年齢の過ぎた妙齢の女性でもある。

「おう。じゃあ、アカリも食べにくるといい」ととおるが爆弾を落とす。

「わーい。うそだったら、君たちのこと就労支援施設のみんなに言っちゃうぞー」

「・・・ご自由に」

ため息が出た。材料代、バカにならないんだけどな。

「ほらほら、かわいい女の子も満足させられない男子は、天罰が降るんだぞう」

女の子とか男子というには、歳を取りすぎた僕らだけど、流れがこうなった以上、交渉をする必要がありそうだ。

「じゃあ、ケーキができたら部屋に持って行くから。・・・お米を山分けしない?」

「山分け?」

「ほら、お米が急に値上がりしたから、僕らの懐も寂しくて」

「だったらさ。お米、分けてあげるよ。うち、実家が秋田だから、毎年、新米を送ってくるんだ。美味しいチーズケーキと交換よ」

交渉成立。

願ってもない幸運に、僕ととおるはガッツポーズを隠したのだった。


「ただいまー!」と無人のアパートにとおるの声が響く。

とおるの背負ったキスリングザックに荷物を入れて、照り返しの強い猛暑の中を歩いて、なんとか僕らは帰りついた。

スーパーからアパートまで、700メートル程度の距離なのに、山道を縦走したかのような疲労感があった。足はパンパン、額には大粒の汗。

とおるが冷蔵庫の麦茶をジョッキに注ぎ、ゴクリゴクリと一気に飲み干した。
僕自身も、お手製のレモン水に少しばかり口をつける。

そりゃそうだ。1週間分の食べ物を一気に買い込んできた。お米がない分まだマシだが、それでも、荷物にすれば買い物かご4杯くらいは買ってきた。

自衛隊出身のとおるはこんな時こそ、頼もしい。統合失調症に罹らなければ、多分、今でも頼り甲斐のある職場人でもあったろう。そして、僕自身も、双極性障害を患わなければ愛おしい妻と離婚することもなかった。病気は憎くない。人生は人生、山あり谷あり。ただ、時に人生には振り返るマイルストーンが必要だ。

閑話休題。

そうそう、食料の仕込みが済んだら、アカリちゃんのチーズケーキだった。
何せ、来月のお米がかかっている。

正式な作り方ではないにしろ、チーズケーキ風のパンケーキを焼くのは簡単だ。
たまご、サラダ油、ホットケーキミックス、プレーンヨーグルト。
それらを適量に混ぜて、型に入れて焼けば出来上がる。もっとも、ご丁寧にも最近は、オーブンを使わずとも、炊飯器でもできる。そして、僕らの冷蔵庫には、日頃から常備しているカスピ海ヨーグルトがある。しっかりこの5年タネを育ててきた一品だ。

材料を混ぜ、タイマーをセットして、時計を見る。
時間は午後3時。このままだと、夕飯時にアカリちゃんの部屋に届けることになるか。ああ、多分、料理が苦手な彼女のことだ。今夜も配達のお弁当を食べるんだろうな。

「おい、今夜は我が家は何が食べられるんだ?」

ワクワク、目を光らせるとおる。こいつは40歳とは思わせない子供のような無邪気さだ。

「イワシが安かったから、フライにでもしようかと思って」

僕はつぶやいて、スマホを見る。過去3年、何を過去食べてきたのかはそこに記録してある。僕のちょっとした宝物だ。

そう言えば、まだ干す前の梅干しが残ってたなあ。

イワシを美味しくさばくコツは、手で開くこと。まず、包丁で頭を落としたイワシの腹に指を突っ込み丁寧に開く。刃物を使うと背骨を抜くとき、結構の身が骨に持っていかれるので、素手の方が都合がいい。そして、何より、イワシは手で捌いた方が断然うまい。

プランターに植えている大葉を程々にちぎって、イワシの身を巻く。なお、すでに叩いた梅肉はイワシに塗ってある。たまごと小麦粉を水で薄めて作った卵液につけて、パン粉を纏わせると、あとは油で揚げるだけ。

そういえば、この間、冷やしそうめんでめんつゆを切らしていたから、補充する意味でも作っておかないと。ちなみに我が家のめんつゆには、隠し味に昆布茶が使ってある。

小一時間経った頃、ベルが鳴る音がした。

「頼む!お客さん、出てくれ!」

と、とおるに声をかける。

サラダ油を中華鍋で強火に熱し、一気に170℃まで加熱。菜箸を入れて、気泡が出る温度で仕込んだイワシを滑り込ませる。香ばしい香りと、心地よく弾ける音が響く。あとは、1分おきにひっくり返して、油から揚げる。
イワシの梅干しの紫蘇揚げ。これで今夜のメインディッシュの出来上がり。
副菜には、昨日の残りのきんぴらごぼうを添えよう。

「わーっ!無茶苦茶、美味しそう!」

背後から黄色い声がして、ハッと後ろを見る。
アカリちゃんだった。

「おい、何、部屋にあげているんだよ?」

ヒソヒソ声で、とおるに釘を刺す。

「何言っておる。男2人の汗臭い部屋にこそ、華が必要であろう」

とおるに反省する様子はない。「それに、お前も悪い気はしないだろう? いとしの美少女だぞ?」

「美少女? 腐女子の間違いじゃ・・・」

「智弘くーん? 何そこで失礼な会話をしているのかなぁ?」

「・・・前言撤回します・・・」

とおるは結婚の経験がないから、女性に幻想を抱くのかもしれないけど、実は僕には憧れはない。僕も20年前には結婚して真剣に愛した女性がいた。幼馴染だった。小さい頃から一緒だったから、知らないことは何もなかった。僕の言いたいことはすぐに察してくれたし、家庭を築いた時、真剣に愛の結晶を授かれるよう、神に誓いもした。

しかし、結ばれた3年後、僕の発病から運命の歯車は狂い始める。

勤めていた職場で深夜勤務を繰り返した僕の体はボロボロで、まず心臓に不整脈が起きた。そして、絶え間ない頭痛。痛み止めもすぐに効かなくなり、そこから眠ることができなくなった。

残っていた有給は、病院通いで使い果たした。一度、仕切り直すことにして、職場を退職する。そして、1ヶ月後、行った総合診療科の受診で、病名を告げられる。

不安神経症、そしてそこからの双極性障害の二次発症。

愛さえあれば、大したことじゃない、頑張ろうね、と彼女は僕を励ました。

しかし。僕は、現実から逃げた。


チーン!

不意に、タイマーが鳴って、僕は我に返った。
ああ、そうか。チーズケーキが焼き上がったんだ。

僕はオーブンから取り出すと、一旦、型に入れたまま、そのチーズケーキを冷やす。この方法で焼いたのケーキは、しっかり粗熱が取れるまで冷やさないとドロリと溶けてしまう。

「アカリちゃんは、お魚は得意?」

「ん? そうだね。まぁ、お刺身とかは好きだよ?」

「イワシフライ、作り過ぎたんだけど、食べてかない?」

この言葉は、半分はうそだ。アカリちゃんに渡す前提で、多めに調理しておいたのだ。爛々と光るアカリちゃんの目。

とおるがアカリちゃんに見えないように、僕の脇腹に肘鉄を入れる。
その目が言っている。お前はツンデレか、と。
まぁ、甘いのは自分でもわかっているんだけどさ。
手に届く人くらいは応援したい、そう思うのが当然だろう?

僕らのこれが日常だ。
そんなささやかな笑顔さえあれば、それだけで僕らは生きていける。

この「ごはん日和」が、ずっと続きますように。

ずっとずっと。

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