「Sleep Walking Orchestra」が意味するもの―『ダンジョン飯』から読み解く

※アニメ『ダンジョン飯』第1クール(1話~13話まで)の内容に触れます。

本稿はBUMP OF CHICKENの「Sleep Walking Orchestra」を、『ダンジョン飯』と絡めて読み解くことを目的とします。

『ダンジョン飯』観

「魔物を料理する話」?

まず最初に「ダンジョン飯」がどういう作品なのか、認識を定めておかなければなりません。
私は高校生の頃、原作である漫画『ダンジョン飯』を1巻だけ買って読みました。
ダンジョンの魔物を料理して食べながら探索していくという、斬新な、しかし説得力のあるアイデアに感銘を受けたのですが、当時の自分は未熟で、よくある料理系漫画のひとつだと勝手に判断してしまい、それ以降の巻には手を付けていませんでした。
「このあともRPGで登場するような魔物たちをどう料理するか?みたいな話が展開されていくんだろう」といった思い込みです。
今、アニメ『ダンジョン飯』を1クール見終えて、その認識は誤りであったと痛感しています。
それは13話でファリン救出が急展開を迎えたから、ではありません。
ここまでの旅路においても、魔物料理は物語の要素の一つに過ぎず、本題はずっと別のところにあったからです。

『ダンジョン飯』が描くもの

私は本作の主題を「絶望的状況においてどう生きるか」だと思っています。

1話冒頭でパーティは全滅、ファリンが竜に食われてしまった。
早く救出しないと消化されて蘇生できなくなってしまう。
しかし再び竜の元へ辿り着くのは困難で、仲間も減り、資金もない。
辿り着けても倒せる保証もない。
ファリンに二度と会えないかもしれない。

コメディタッチで描かれているのでそこまで感じなかったものの、冷静に考えると状況はかなり深刻です。
ライオスたちは明るく振舞っていますが、行動だけ見ると、装備を売ろうとする、ライオス一人で行こうとする、結果準備も整わないまま3人だけでダンジョンに潜る、という極めて無謀なことをしています。
状況は最悪だということはわかっていて、その焦りが見えます。

しかし、そんな中にあって、ライオスたちはなんとか希望を見出そうとするのです。

「竜は食事の後寝るから消化が遅いはず」
「食料問題は魔物を食べれば大丈夫」
「ファリンはきっと助け出せる」

確証のない、もはや願望のような、僅かな希望。
それがライオスたちの原動力でした。

これは、「どんな小さな希望でも捨てない!少しでも可能性があるなら信じる!」という少年漫画の主人公的なスタンスとは違います。
ライオスたちを前に進めるのは、情熱などではなく、現実から目を逸らし、微かな希望を見出して自分を騙すという、大人な態度です。
空気がコメディチックなのも、けっして楽観的だからではなく、まだ絶望的ではないと、きっと大丈夫だと思っていたいからではないでしょうか。
魔物料理はそんな彼らの希望のひとつでした。
なんだ意外といけるじゃん、この調子なら、ファリンもきっと。
『ダンジョン飯』は「絶望の淵にあっても僅かな希望を抱いて進む人たち」の物語だと思います。

歌詞を読み解く

『ダンジョン飯』観が定まったところで、さっそく「Sleep Walking Orchestra」の歌詞を読み解いていきます。
ここではオープニングに使用された1番の歌詞を扱います。
著作権の関係上すべての歌詞を引用することはできませんので、歌詞を浮かべながら、あるいは曲を聴きながら読んでいただけると幸いです。

Aメロ

最初は冒険の始まりが歌われます。
一人ぼっちで閉じこもった部屋に外から光が差し、その光に連れられるように外へ出る。
「からっぽの手」は、一人ぼっちの寂しさだったり、何かを得たい、何者かになりたい、という気持ちも読み取れます。
ライオスたちをはじめ『ダンジョン飯』の冒険者たちは、さまざまな理由でダンジョンに足を踏み入れます。

ダンジョンの中は思いもよらないことばかり。
そんな冒険はまるで「夢の中」のようで、目を覚ましたらまだ実家の布団にいるのかもしれない。
嬉しいことも辛いことも、実は何も起きてないのかもしれない。
ふわふわと、ただ「連れ出され」たまま、時間に運ばれるように生きるしかない私たち。

幾つかの普通が重なり合うと 時々そこには魔法が宿る

『ダンジョン飯』において「幾つかの普通」というのを、たとえばライオスたちが冒険者になったことであり、マルシルやチルチャックといった仲間と出会ったことだとしましょう。
ダンジョンに人が集うのは当然で、パーティを組むのに人と人が出会うのは普通のことです。
ファリンとマルシルが学校で出会ったのも普通のこと。
そんな普通が重なり合って、ライオスパーティは竜の元まで辿り着くほどの実力を得ました。

しかし、「あれは恐らく悪魔だった」。
魔法が宿ってしまえば、先へ先へと進めてしまいます。
ますます夢から醒めることができず、いつしか取り返しのつかない場所まで来てしまう。
その結果、ライオスたちは敗れ、ファリンは竜に食われました。

Bメロ

冒険に出る前の自分と籠の中の鳥は似ています。
それが今では、閉じ込められた鳥を自分は外から見ている。
自分は何かを失くしてしまったのでしょう。
もう昔のようにはいられないのでしょう。

冒険者たちはいつの間にかダンジョンに魅入られ、引き返せなくなってしまいます。
ダンジョン内で生活する冒険者崩れも作中に登場しました。
何かを得るために来たはずが、いつの間にか何かを失っている。
ファリンを奪われたライオスたちは、もう引き返すことはできません。

サビ

どうして体は生きたがるの 心に何を求めてるの

「体は」生きたがってる。
心に反して。
辛くて痛くて、もう生きていくのがしんどいのに、肺は息を吸ったら吐くし、お腹は食べ物を欲しがる。
「ダンジョン飯」で重点的に描かれたのも、強敵とのバトルやライバルとの競争ではなく、「食べる」という生の営みでした。
どんな英雄も、権力者であっても、ひもじい暮らしをしていても、塞ぎ込んでいるときも、ダンジョンの中であっても。
生きている限り、体から逃れることはできません。

さあ今 鍵が廻る音 探し物が囁くよ

どこかで鍵が回る音がして、探し物が見つかる予感が高まる。
面白いのは、鍵が回る音しか聞いていないということです。
鍵が回るのを見たわけでも、扉や宝箱が開いたわけでもありません。
でも、世界はいつも動いていて、自分の預かり知らないところで、今まで開かなかった鍵が何かの拍子に開くこともある。
ゲームで「どこかで鍵が回る音がした」とメッセージが出たら、それはその道に進めるフラグなのです。

同じくBUMPの「Flare」という曲に似たフレーズがあります。

今世界のどこかで青に変わった信号

信号が赤から青に変わる。
進めなかった道が進めるようになる。
自分とはまったく関係のないことなんだけど、行き止まってしまった自分も、いつかそんなふうに変われるかもしれない。

ライオスたちも絶望的な状況だけど、どこかで事態が好転するかもしれない。
新たな道が開けるかもしれない。
希望は「見えない糸」みたいにあるかないかもわからなくて、あったとしても細い。
でも、いつだってこの体がちゃんと自分を支えてくれている。

赤い血が巡る その全てで 見えない糸を手繰り寄せて

Sleep Walking Orchestra

「sleepwalking」は夢遊病のことです。
眠っているのに起き上がって徘徊する、
意識は夢の中で、体だけが勝手に動く、という現象を指します。

人間生きていれば、どんなに苦しい状況でも、心臓は脈を打つし呼吸は続くしおなかはすく。
心がどう思っても、体は勝手に生きようとしてる。
それを夢遊病になぞらえた曲名なのだと思います。

いろんな種族の冒険者が集まって一つの物語を作り出すダンジョン。
私たちの社会もいろんな人が集まって形成しています。
この曲における「Sleep Walking」とはすべての生者のことであり、
「Sleep Walking Orchestra」は私たちの世界そのものなのです。


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