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荘子的混沌と興味資本、知的生産について

 最近、諸子百家を学ぶzoomに参加している。一冊の新書をもとに各哲人たちの思想に1週ずつ触れていく会だ。今まで老子、荘子、楊朱、孔子、孟子ときたが中でも私が気になっている思想家がいる。荘子(荘周)だ。

 荘子は人間世界を無の無限連鎖、混沌と表現している。混沌とは何だろうか。混沌とは、混沌である。人間がいくら混沌とは何某であると述べたところでそう述べてしまった時点で混沌を混沌であった何某に変換するだけであり、混沌のそのままを保持できなくなる。生のまま、生きている混沌とは解せないものだ。

 だが、あえて混沌に解釈を組み込むならば混沌とは密なるタピオカミルクティー的状態である。人間がタピオカで、環境がミルクティーだ。タピオカである人間はどこへ行こうとしても左右上下の他のタピオカが邪魔で動けず、横のタピオカに「邪魔だ、どけ」と言ってもそのタピオカすら左右上下のタピオカが邪魔で動けない。完全に密集された環境の僅かな隙間をミルクティーが埋めている。そして我らタピオカの世界は一人のタピオカが声を上げれば連鎖的に声が上がりうるさいからやめろと言っても他のタピオカの声が邪魔で誰も聞いていない。百家争鳴とはまさにこの事であり、いくら騒いだところで誰の耳にも正確な情報は入っていない。

 人間世界は混沌であり密なるタピオカミルクティー。何を言ったところで誰の耳にも正しくは入らない。ではこの環境において人の耳に入る言葉を述べるものは何者であろうか。それは誰よりも大なる声を出せる人間というよりか耳に入ってしまう言葉を述べるもの、妖怪だろう。

 妖怪は言葉を喋るだけではない。妖怪は人間たちを黙らせ聴衆にする。妖怪にはそれだけの力がある。なぜ妖怪には人を聴衆にする力があるのか。それは彼ら妖怪たちが興味の資本家であるからだ。彼らは興味を持っている、といっても分かりにくい。より確度を増した言い回しをすると”興味”を身体化して備えている。タピオカたちはやれミルクティーが暑いだ寒いだ、隣のタピオカが云々とかそういう事しか語らないが興味を身体化した妖怪たちはタピオカに目をくれることもなくただ自分の興味があることばかりに専念する。混沌の中にあってタピオカに興味を示さないことは他のタピオカからすれば異常なことだろう。しかし妖怪は自らの興味にしか興味を示さない。

 興味を持つ妖怪と興味を持たないタピオカ、ここに興味有無の差異がある。興味を持つ者と持たざる者がいる以上はもう興味そのものが資本として活動を始める。興味を持たないタピオカたちは妖怪たちが所有する興味を欲しがる。ただ欲しがるのではない、より質と量が豊富な興味を欲しがる。妖怪たちの間でも小さな興味を大きな興味と交換したい欲望がある。この興味を求める活動こそ知的生産活動である。タピオカであれ妖怪であれ、人間は元々ワクワクしたい動物なのであろう。ワクワクのために何にどれだけの対価を支払えるか、興味にコストを出せるかが人生の中で重要な意味を持ってくる。興味に対して支払うコストはやはり興味だ。例えば書店で一冊の本という興味に対して支払える興味は僅かでも媒介物である金銭を支払えばその一冊の興味を得ることができる。逆に私はこれだけのことに興味があり現にこれだけ知り得てこれだけの実績があり次はこういうことに興味があるとプレゼンテーションできれば周囲の興味が集まり媒介物の金銭が集まったり興味そのものが来たりする。

 興味が行き来して活動するとどうなるか、それは知的生産を起こす。あることに興味を抱き、そのことに関する本を読み、そこから書き下したメモを作る。これは一種の生産活動だ。これが発展して100冊の本に値する興味を抱きそれだけの情報を読んでまとめを作ったとしても同様に知的生産になる。問題は100冊分の興味、それ以上の興味をどうやって抱くかだ。興味が誰よりも多い者は誰よりも富める。ここまでを真とするならばもはやどこで学んだかやいくら資金があるなど些細な事になる。重要なことはどれだけ質が良く量の多い興味を人生で抱くことができて、その興味に対して真摯であったかだ。他人と興味が違うことはそれだけで一種の資本家であり興味を持たない他者と比較して優位である。

 世界は混沌である。問題は興味を持たずに混沌の内に居続けるか、それとも混沌の外に興味を持ち混沌から脱出するかだ。興味を持った瞬間から個人は資本家であり、その興味に対して真摯かつ実践的であればその興味を持つ人生はより良いものだろう。

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