今すぐ世界樹を植えろ
人には庭がある。
一口に庭といってもその大きさから造り、趣や風で千差万別ある。洋風の邸宅と庭園を好む人もいれば、石庭に雄大さを見出す人もいる。無論、一鉢の盆栽に未踏の大自然を思うこともできる。人間とは一つの情景を前にしてもその物理的制約を超越して空間を捉えることができる生き物のようだ。
庭が無い人々は何を見て世界や空間を思うのだろうか。ざっと見ても机、スマホ、街、道路、鉄道、大きさや機能なら庭より優れているであろうものや場所はいくらでもある。しかしそれらを庭のように拡張的な捉え方をするとなれば些か難しさを感じる。
この例として列挙したものと庭は何が異なるのだろうか。人為性という点ならばどちらも人間の手によって作られたものであり、無為自然ではない。どちらも人為によるものであるが古来から庭に惹かれる人間は多い。それはなぜだろうか。
一つの可能性として「わからなさ」が庭にはあると思う。あの草はなんだろう、向こうで鳴いている鳥の姿がよく見えない、そういった「わからなさ」が庭にはある。人間はこのわからない部分、未知なのか思い出せていないだけかすらわからない部分を余白にして自らの景色を思い描く。きっとこの余白の部分が人間にとっての庭であり、この庭を持つことこそ可能性の獲得といえるのだろう。
眠れない夜、剤のせいだよ
処方薬が一部変更になり、それが全く自分に合わなかった。不眠だけでなくふとした時にラーメンとライス、餃子を三つ、帰りにコンビニでアイスをと思うくらいの空腹感が我が身を襲い、夜明けへ近づくにつれて躁転航路が拓けてくる。
水槽やら必要機材一式、全て注文したまま寝落ちて意識が戻ったのは翌日の昼前だったか。とにかく明日には届くらしいとメールには書いてあった。取り急ぎ何をどうすれば形になるかをYouTubeや専門サイトで調べていき、疑問があればまた調べるといった具合に今まで脳に無かった情報を詰め込んでいく。事ここに至っては「なぜ自分は水槽を?」などは全く思考に無く、ひたすらどう作るか、何ができるか、そもそもなぜ、といった具合に前進することのみに集中していた。
大いなる疑問
生き物は食べると排泄物を出す。人間であれ魚であれなんであれ、代謝が動く限りは出す。だが水族館や熱帯魚売り場では排泄物特有のアンモニア臭がしない。それはなぜだ? 調べてみるとバクテリアの働きが大きいようで専用のキットも売られていた。どうやら排泄されたアンモニアをこのバクテリアが亜硝酸、硝酸塩と分解していき最後には窒素にする(脱窒というらしい)ようだ。この過程が十分に機能すれば少なくともアンモニアは分解されるので臭いの問題は無くなる。
そして窒素、どこかで聞いたなと調べたらリン、カリウムと並ぶ植物には欠かせない物質らしく肥料にも含まれているとか。ただ自ら水槽に入れた水草がこれらのアンモニア分解物質を全て吸収してくれれば苦労はないがよくある水槽の汚れや藻類の発生の原因にもなるらしい。苔類も藻類も水草と同じく植物であり、こうした栄養素がある環境で光合成をすれば相応に増えるのは当たり前といえばそうだろう。
コンセプト:使い切れ
調べてみた限り、水槽に付着した苔類や水草に付着した藻類は人間が掃除する必要がある。しかし人間は人間であり、俺は俺であるからめんどくさい。そもそもアンモニアを分解した栄養素が残ることが手間の原因である。ならば全て使い切れるように組み立てようではないか。まず水槽に取り付ける外掛け式フィルターにホームセンターで買ってきたガジュマルを挿した。取水口は底部取水を採用して酸素や排泄、それらの分解物質が全てソイルと水草の根を通過する形にしてフィルターへ汲み上げられる。水槽側で吸収されなかった窒素などの栄養素はフィルターに挿さったガジュマルが吸い上げていき、ついでに蓋代わりの苔も吸い上げる。この過程を経て残った水が水槽へ戻る仕組みだ。
この記事を書いている時点でアンモニア臭は全くしていない。ガジュマルも新芽を吹きまくり剪定を行った。外掛け式フィルター盆栽である。水質や生体、水草などの状態は毎朝検査してスプレッドシートに記録しているが今のところアンモニアの検出反応は皆無である。
世界樹
それぞれの水草が日にどれだけの栄養素を必要とするかはわからないが太い幹と大きな葉を持つガジュマルの代謝能力はとても大きいだろうと思う。だからこそ水槽の僅かな異常が反映されやすい。水中に含まれる酸素濃度が低下すれば根腐れを起こして今のような葉の艶やハリはすぐに無くなるだろう。またアンモニアの分解に問題が生じれば栄養素が足りなくなるため今のようなペースで成長したり新芽を吹くことはない。つまり水槽側の環境が良好であればあるほどこのガジュマルはよく育つが何か悪化すればこのガジュマルは終わりである。
しかしガジュマルとて水槽に支えられているだけではない。水槽側で余った余剰栄養素を吸収して水槽側の水質を維持する機能を果たしている。水槽とガジュマルは相互互恵関係にあるといえるだろう。
無ければ滅ぶ
水槽が無ければガジュマルは痩せ細り、ガジュマルが無ければ水槽はジャングルになる。机の上に置かれた自分の庭、ネオンテトラ二匹にゴールデンハニードワーフグラミー(630円氏)とガジュマルは一つの世界を成している。世に持続可能性という言葉があるがこれには二つの種類があると思う。一つは人間の介入により持続する可能性、もう一つは人間の介入を必要せずに持続する可能性だ。この水槽世界は朝の記録と日に何度かの餌やり、気が向けば剪定をするくらいの介入のみで動いており前者の持続可能性より若干ではあるが後者の持続可能性へ近づいている。
この水槽世界の目標は自分がいなくても滅ばないようにすることだ。動きを保つために自己の動きを投下するでは自転車と同じであり、片方が途絶えればもう片方は倒れてしまう。これは持続可能性がある、とはいえないだろう。
だから世界樹を植えろ
ここで世界樹を定義してみようと思う。
“世界樹とは世界が人間の手から離れても世界樹によって世界が支えられるものであり、支えられた世界も人間の手を経ずに世界樹を支えるものである。”
この定義に従い、この水槽世界の世界樹としてガジュマルが育てばこの試みは成功といえるだろう。
人間の日常生活や人間関係において世界樹の役割を果たしているものはあるだろうか? 「世界」という言葉を日常生活や人間関係に置き換えてそれらを支えている世界樹と、それらに支えられている世界樹。その世界樹はすでにあるかも知れないし、植える必要があるかも知れない。世界樹の存在を欠いているから不安定な日常生活や人間関係があるとすれば今すぐお前は自分の世界に世界樹を植えろ。
追伸:明日で三十路になります。PS5が欲しいです。